もしも漢字がなかったら

(2000-02-08)

 日本語の入力方式について議論したり考えたりしていると、時々、日本語の表記法は本当にこれでいいのかという疑問にぶつかることがある。
 日本語の表記法には幅がある。それはある程度までは書き手の裁量に委ねられているが、もちろん一定の制限はある。しかし、その「一定の制限」というものがあまり厳格ではなく、標準的な表記法が定まっていない。ここに悩みの種があるのだと思う。

 例えば、送り仮名だ。「行う」と書けば確実に「おこなう」と読める。しかしこれを「行った」に変えた途端、「おこなった」なのか「いった」なのかが不確実になる。多くの場合は文脈から判断できるが、用心して「行なった」と書いておけば安心だ。しかしそうすると、同じ文章の中では「行なう」と書かなくてはちぐはぐな感じになるだろう。
 もちろん、「行う」と「行った」で統一してもいい。しかし、どちらかに統一しなくてはならないという一般的な原則があるわけではない。「行う」と「行なった」を混ぜても平気な人もいるだろうし、わざわざ「行なう」と「行った」を使うへそ曲がりもいるだろう。
 そういう判断を避けるために、「おこなう」や「おこなった」と仮名書きにしてもいいし、「実行」「実施」「開催」などの漢語に置き換えることもあるだろう。逆に、簡略化して「する」「した」で済ませる手もある。ただし、表記法のために言葉を選ぶのは本末転倒かもしれないが。

 ここに、「そんなにひょうきほうがめんどうになるんだったら、いっそのことかんじをつかわずにかいてはどうか」という意見が出てくる余地がある。「はなすときにはかんじとかなのくべつはないのだし、そもそもおんせいげんごがさいしょにあってそれをかきしるすためにもじをつかっているだけなのだから」という理由は、読みにくいことを別にすれば、一応もっともだ。

 普通、価値があると信じているものを無価値であると否定されると、大抵の人は感情的な反応を示す。だから、漢字に価値があると思っている人に向かって「漢字は不要だ」などと言うと感情的な反発を引き起こす恐れがある。それではまともな議論ができない。
 「日本語の表記に漢字は不要である」という意見に対して、感情的にならず冷静に反論するには、価値観を白紙に戻す必要がある。あいにく今のところはまだタイムマシンが発明されていないので、空想の世界で過去に遡ってみよう。

 時間旅行の最初の行き先は、自分の子供時代だ。会話はできても読み書きができない頃がよい。空想の世界だから、漢字のない世界にしてみる。絵本に書いてある文字は平仮名である。これは何も問題はない。平仮名の読み書きが少しはできるようになる。やがて体系的に文字を学ぶが、漢字のない世界だから漢字は一切習わない。ずっと仮名だけである。だんだん難しい言葉を使えるようになるが、これでも特に不都合はない。むしろ、漢字の練習をしなくてもよいのは結構なことだ。あっと言う間に大人になる。みんなが漢字抜きで生活している。別に困らない。「いや、待て、それでは古典が読めなくなるではないか」と言う人もいるだろう。しかし、この架空の世界では、古典も全部仮名書きだ。それなら構わないだろう。

 こんなことを言うと「漢字がないのに一体どうやって仮名が生まれたのか?」と反論する人が必ずいるだろう。そこで、さらに時間を遡る。文字が伝来する以前だ。要するに、子供も大人も会話はできても読み書きができなかった時代だ。漢字のない架空の世界だから中国から漢字が伝来することはない。その代わりに、ヨーロッパからアルファベットを輸入してもよいし、独自の文字を発明してしまってもよいだろう。
 とにかく、そういう文字を便宜上「仮名」と呼ぶことにする。いずれにせよ、日本語を書き記すために使われる文字があり、表記法ができる。ここに、漢字のような面倒なものが介在する必然性はない。もちろん、日本でも漢字と同じような起源を持った独自の文字が考案される可能性はある。しかしその場合でさえ、日本語を表記するのに適した文字になる筈だ。これまた結構な話ではなかろうか。

 空想はこれくらいにして現代に戻る。しかし、現実は今空想したようなことにはなっていない。これは歴史的な事実であり、議論してみても始まらない。実際に、中国から漢字が伝来したのだし、それを元にして平仮名や片仮名が作られたのだ。この過去の出来事を改変することはできない。
 だからといって、それだけの理由で日本語の表記法は現状維持でいいとのだ主張するわけにもいかない。ただし、情報の電子化という技術的な問題があるから表記法を改革すべきであるという主張にも人を納得させる力は少ない。
 大雑把に見ると、どちらにも一理あるように思えるが、ではどうすればよいのかと考えるには材料がちょっと足りない。

 ここで、ワープロ批判というものに登場してもらう。『文學界』二〇〇〇年二月号に掲載された石川九楊氏の「文字は書字の運動である――文章作成機(ワープロ)作文は何をもたらすか」という論文である。そして、これに呼応するかのような「ワープロを捨てた作家たち」という記事が本日発売の『週刊朝日』二〇〇〇年二月十八日号に出た。〔井上ひさし「私が手書きに戻ったワケ」〕というサブタイトルが気になって買ってきた。読んでみたら、お決まりのローマ字入力/仮名漢字変換/ワープロ自体への批判が並んでいる。共通点は、便利そうな機械を使ってみたが期待はずれだったので結局機械を使わなくなった、やっぱり文字は手書きに限る、というようなことだ。
 これもまた一理ある。その井上氏が、同じ号の別のページで、大野晋氏の『日本語と私』を評して「日本語文とは口語体漢字平仮名交じり文のことだったということが、しみじみとよく分かる」と言っていることは興味深い。
 便利なワープロをあっさり捨てて手書きに戻ることはできても、厄介な漢字平仮名交じり文を捨てようなどとは決して思わないのだ。これは、この日本語の表記法がしっかりとわれわれ日本人の身体に根をおろしている証拠だと言えるだろう。普通の人の何十倍、何百倍もの文字を書く達人たちがこう言っているのだから、ワープロのために表記法を変えるのは至難の業、漢字を捨てるなどというのは論外なのだろう。

 これだけで結論を出すのも乱暴な話だが、新しい技術のために長年の技術の積み重ねである表記法をどうにかするのではなく、慣れ親しんだ表記法を電子媒体に載せやすくするための技術を開発すべきだというのが素直な考え方だと言えるだろう。
 仮名漢字変換こそが、その新しい技術なのだろうか。前述のようなワープロ批判が今でも多くの支持と共感を集めるのはなぜなのか。文字づかいを機械任せにすると、期待通りの結果が得られなかったときに裏切られたように感じる。日本語の標準的な表記法が確立されていないのだから、機械的に処理しようという発想がそもそも間違っている。書きたい文字を自分の手でタイプする技術を身につければ、少なくとも仮名漢字変換に起因する問題からは解放されるだろう。
 そういうわけで、漢字直接入力のことをもっと知ってもらいたいものだという、毎度お馴染みの話に行き着く。

 蛇足を加えると、この文章は最初は手書きで書こうとしたが途中でかったるくなって、QXエディタ(縦書き表示)を使い、WXGに載せたG-Codeで入力した。やはり日本語の文字は縦書きにした方が読みやすいと思う。その後、常用しているPowerEDITOR(横書き)で若干の推敲とHTMLのタグ付けを行った。もしも誤字があったら全て筆者のミスである。


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