ワープロ論争への提言

(2000-04-03)

 今年に入ってから、文芸誌の『文學界』を中心にワープロに関する議論が起きている。率直に言って、いまだにこんな議論をしているのかという気もしたが、よくよく考えてみると、最も大切なところを置き去りにしたままワープロが進歩してきた結果ではないかとも思える面もある。

 今回の議論が以前と大きく異なっているのは、文字コードの問題にはほとんど触れていないことだ。このところ、13万字を搭載したOSが登場したり、JISの文字コードが拡張されたりという目立った動きがあったため、十数年前から改善されていない本質的な問題点に光が当たるようになったのだろう。

 そこで、ワープロ(特に日本語入力方式)の問題点について、あらためて考えてみる。(なお、以下の文章では、「ワープロ専用機」と「パソコン上のワープロソフト」の両方を「ワープロ」と呼ぶことにする。)


ワープロに関する記事

 まず、最近目にしたワープロに関する記事を見てみよう。

石川九楊氏の意見

 議論の発端は、書家の石川九楊氏が『文學界』(平成十二年二月号)に書いた「文学は書字の運動である――文章作成機(ワープロ)作文は何をもたらすか」という文章だった。

 主な論点を拾い出すと、以下のようになる。


井上ひさし氏の意見

 『週刊朝日』(2000年2/18号)に、「ワープロを捨てた作家たち」という題の記事が載った。中でも、作家の井上ひさし氏のコメントが大きく取り上げられている。

 井上氏の意見は、以下の通り。

外岡秀俊氏の意見

 今度は、「朝日新聞」(平成12年2月27日付朝刊)の「主張・解説」面に「ワープロ廃止論の重み」という記事が出た。筆者は編集委員の外岡秀俊氏。『文學会』の石川九楊氏の批判文を引用しつつ、電子ネットワーク社会にまで話を広げている。

 外岡氏の意見(引用部分以外)は以下の通り。

Webに掲載された意見

 「ワープロ廃止論」などをキーワードにして検索エンジンで捜したところ、以下のようなWebページが見つかった。

アンケート結果

 その後、『文學界』(平成十二年四月号)に「ワープロ・パソコンVS.原稿用紙」と題したアンケート結果が掲載された。質問事項は以下の6項目にわたり、140名の文筆関係者の回答が載っている。

(1)
執筆は手書きですか、ワープロ、パソコンですか。
(2)
(手書きの方に)原稿用紙、筆記具などは? またワープロ、パソコンでの原稿執筆についてのご意見がありましたら、お書き下さい。
(3)
(ワープロ、パソコンの方に)いつ頃から使っていますか。現在ご使用の機種は?
(4)
(ワープロ、パソコンの方に)手書きとの違いはありますか。たとえば、推敲、構成などのプロセスに何らかの変化は生じましたでしょうか。
(5)
雑誌、本という紙に印刷される形だけでなく、メディアの世界では様々な変革がみられます。これからの十年二十年で、執筆、出版などの形はどう変化するとお考えですか。
(6)
書家の石川九楊氏が小誌2月号に「文学は書字の運動である」と題して、ワープロ、パソコンでの執筆を批判しています。感想、批判等があればお書き下さい。

 質問(4)への回答を中心にして、以下、ワープロ・パソコンに関する意見を可能な限り抜粋してみる。(掲載順・敬称略)

 このように、それぞれのメディアでいろんな意見が提示されている。

 しかし、あまり個々の意見にこだわると、結局は個人的な好みの違いに行きついてしまうことになりかねないので、問題点を「技術以前」「技術」「技術以降」の三つに分けて考える。


技術以前の問題

 まず、以下のような技術以前の問題について切り離しておく。

筆蝕の問題

 手書きとは異なった方法で文字を記す道具に対して、筆蝕がないと論難しても始まらない。筆に快適なキー配列を求めたりはしないのと同じことだ。

 以前は筆蝕のない筆記具などというものは存在しなかったから、「文字を記すこと」はそのまま「筆記」を意味し、その全過程を「筆蝕」と呼ぶことも可能だった。しかし、ワープロの出現によって、その前提は覆されたのだ。ワープロの存在を否定するのではなく、文字を記すときには必ず「筆蝕」があるはずだ(なければならない)という思い込みの方を修正すべきである。

 「筆蝕のない文字は本当の文字ではない」という思想を持つのは自由だが、それならば、その思想は「本当の文字」で発表しなければ首尾一貫しないだろう。

文学の問題

 ワープロでは真の文学が書けないという意見もあるが、「活字」が「電子」化したぐらいで今さら騒ぐほどのことではない。それに、キーボードで執筆され、ネット上で流通している文学作品も既にある。自分にできないからといって他人にもできない筈だと推定する根拠はどこにもない。もちろん、逆もまた真なりで、誰でもワープロで文学的な作品が書けるとは限らない。

 文字を記す方法が「書」であれ「打」であれ、あるいはまた「刻」であれ「印」であれ「噴」であれ、読んだ人の心を揺さぶることができれば、それは文学と呼べるのではないか。文字を記すための技術がどんなに変化しようとも、人間が遊び心を持ち、言葉を使っている限り、言葉の芸術はなくなりはしないと思うのは、楽観的すぎるだろうか。

「個」の問題

 電子メディアを日常的に使うようになってからのわずかな年月で、我々が急に「個」を失ったのだとは考えにくい。
 もしもネットワーク上の表現が個性に乏しいのだとしたら、むしろネットワーク以前の環境の影響ではないかと疑ってみた方がいい。たとえば、マス・メディアを通して紋切り型の情報を与えられたり画一的な教育を受け続けたりした結果、個性的な発想や表現ができなくなったのだと考えた方が、まだしも筋が通るのではなかろうか(この考え方自体が個性に乏しいことを、私は否定しない)。

 従来のメディアには乗りにくかった文章でも、電子メディアでなら公表することが可能だ。もちろん個性のない文章を垂れ流すことにも、それと同等の可能性が与えられている。
 メディアや道具がどうであれ、「個」の確立を問われるべきは我々自身ではないか。


技術的な問題

 次は、純粋に技術的な問題について考える。

表現者と道具の関係

 ワープロはあくまでも文章表現のための道具にすぎない。どんな道具を使おうが、文章は書き手が書くものだ。筆や鉛筆やペンやワープロが書くのではない。
 ワープロが表現内容に影響を与えるとすれば、それは、他の筆記具を使った場合と同じだろう。書き手が不慣れであったり道具の使い勝手が悪ければ、表現内容に悪い影響を及ぼすだろうことは誰にでも想像できる。

 しかしワープロは執筆専用の道具というわけでもない。どのワープロにも編集支援機能や印字機能が入っているからだ。
 原稿を紙にプリントした後で修正したい点があった場合、手書きで修正してもよいが、ワープロで修正して再度プリントすることも簡単にできる。プリントする前に修正するのはもっと簡単だ。
 そのような修正を重ねていくと、ワープロで打ち出した原稿と、校正刷りとの間に表面上の違いがほとんどなくなってしまう。つまり、推敲と校正の区別がつきにくくなる。この点は特に、経験の豊富な文筆家ほど引っかかりを感じるのではないかと想像できる。

 校正刷りができるまでの工程には生身の編集者が介在するが、ワープロの中にはもちろん編集者はいない。編集者がいるとすれば、ワープロの外でワープロを操作している人間だ。したがって、ワープロが打ち出した原稿を、校正刷りのような感覚でながめると、執筆者と編集者の一人二役を演じてしまうことになる。
 ワープロに否定的な意見の中には、過剰な推敲の結果、文章が平板になってしまうという指摘が多い。しかしそれをワープロのせいにするのは筋違いだ。推敲するのは表現者自身なのだから。

 また、ワープロのせいで漢字を忘れるという意見もあるが、ワープロに人間の記憶を消す力はない。手書きの際に漢字を忘れたような気がするのは、普段ワープロに頼って漢字を出しているせいだろう。
 つまり「ワープロのせいで」は「ワープロのおかげで」の裏返し。これらは全て表現者自身の問題だ。このような錯覚を避けるには、機械に凭れかからず「ワープロなんて人間に指示されたことを実行するだけのものだ」と思っておいた方がよい。

キーボード

 はっきり言って、キーボードの出来は悪い。これがワープロの使いにくさの一因となっている。キーボードは、身体的な運動に直接関わる部分なのだから、もっと注意が払われるべきだ。しかし残念なことに、使い心地はカタログに記載される数値には現われにくく部品数が多いという理由もあって、コストダウンの対象にされやすいのが実情だ。

 現在普及しているキーボードは、機械式タイプライターの欠点をそのまま受け継いでしまっている。これには二つの問題点がある。

 第一に、物理的なキーの並べ方に問題がある。機械式タイプライタは、その機械的な構造上、キーを縦方向に整列できない。そのため、キーは奥から手前にかけて、少しずつ右にずらされている。電子式キーボードでは、このような制限はなくなったにも関わらず、タイプライタと同じようにジグザグに配置されている。
 物理的なキーの配置やキーボード全体を改善したキーボードはいくつも市販されているが、まだ一般にはあまり知られていない。

 第二に、各キーに対する文字の割り当て方があまり合理的でない。これも機械的な制約があった当時の設計が今でも生き残っているのだが、今となっては根拠に乏しい。
 英語用キーボードは英文タイプライタの欠点を引き継いだだけだったが、日本語用キーボードはもっとひどい。
 現在最も普及しているJIS配列のキーボードは、山下芳太郎氏が生涯をかけて作り上げたカナタイプを改悪してしまったものだ。このいわゆる「JIS仮名配列」の使い勝手はよくない。しかし、一度普及してしまったものを改めるのは難しく、その後JISによって改良された新しい配列(いわゆる新JIS配列)は、今では市場から姿を消し、JIS規格としても廃止されている。
 富士通が開発した親指シフトという仮名入力方式がある。これは文筆業者をはじめとする多くのユーザーに支持され、(サードパーティーを含めて)メーカーもサポートを続けている。また、NECのM式キーボードも現在も販売され続けている。他社が独自方式から早々と撤退していったことを思えば、この点だけでも評価に値する。

 キーボードは、今後、もっと改良されなければならない。

入力方式

 英字配列や仮名配列のキーボードを使って、日本語の漢字仮名交じり文を入力するのは簡単なことではない。何といっても、漢字を打つにはキーの数が足りない。

 和文タイプライタのような入力方法のワープロが作られるべきだったという意見もあるが、実はそのような方式(タブレット型)も開発された。しかしあまり実用的ではなかったため、今では姿を消している。その流れを汲んだ多段シフト方式は今でも印刷業界などで使われているかもしれないが、この巨大なキーボードは一般向きではない。
 英字キーボードや仮名キーボードで仮名を入力してから漢字に変換する入力方式の方が実用的であり、一般のユーザーに支持されている。

 現在、この仮名漢字変換方式が主流になっているが、言葉のプロたる文学者ともあろう人たちが、アマチュア向けの入力方式を試みただけで投げ出してしまったと聞くと残念でならない。筆ペンを使っただけで「毛筆はダメだ」なんてことを言っているのと同じように聞こえてしまうのだ。
 日本語の入力方式は、仮名漢字変換だけではない。ローマ字や仮名を介さずに、意図した通りの漢字を直接打ち込む「漢字直接入力方式」というものがある。ワープロを全否定する前に、せめてこのことを知っておいてもらいたい。

 漢字直接入力方式は、ある一定の順序でキーを打てば、必ず決まった漢字が入力できるというものだ。これを使いこなすには、数百から数千の漢字の打ち方を覚えなければならない。普通のユーザーは簡便な仮名漢字変換方式を選び、メーカーも多く売れる製品の開発に力を入れた。このことは当然の成り行きだろうと思う。
 しかし、漢字の選択を機械任せにすることは我慢ならぬという人ならば、漢字の打ち方を身につける程度の練習は苦にならない筈だ。仮名漢字変換方式に不満があるのなら、一度は漢字直接入力方式を試してみてもいいだろう。

 漢字直接入力には、いろいろな方式がある。キーボードフォーラムの「漢字直接入力」のページ(http://www.nifty.ne.jp/forum/fkboard/kanchoku.htm)に簡単にまとめてあるので参照してほしい。


技術以降の問題

 技術以降の問題として、以下のような問題点も考えられるだろう。

ユーザーの智恵

 ワープロのように未完成で融通の利かない道具は、使う側の工夫次第で便利にも不便にもなる。

 たとえば、執筆が一区切りするごとに別のファイルに保存しておけば、事故でデータが消えてしまったときや推敲をしすぎたときに復旧することができる。
 また、同音語選択で思考が中断するのが嫌なら学習機能を切って変換キーを打つ回数を身体に叩き込めばよいのだし、文章全体を一覧したければ紙にプリントして眺めればよい。

 ワープロの主な用途(文書の作成や編集)を考えたとき、CPU、メモリ、ハードディスク等の高速化や大容量化はそれほど必要なことではない。それらの部品が安価になった分、キーボードの使い勝手やディスプレイの見やすさ等に開発費を注ぎ込んで欲しいと思う人は多いだろう。
 自分にとって何が重要であり何が不足しているのかをきちんと把握しておけば、新しい機種やソフトが出ても冷静に判断できる。また、店頭で触って良し悪しが判断できる程度に使いこなしていなければ、まともな製品を選ぶことはできない。つまり、最初から最新の最高機種を買い整えるようなことは避けた方がよい。

 さらに、我々ユーザーの声を直接メーカーに伝えることができればよいのだが、それ以前に、使いもしない機能やおまけにつられて不必要な買い物をしていないか、冷静に考えてみるべきだろう。一人のユーザーの声が「売上」という名の大きな声にかき消されるだろうことくらいは容易に想像がつくからだ。

教育の問題

 ワープロを学校で教えるべきかどうかという議論について。

 「ワープロぐらい打てなくては将来困るだろう」という肯定的意見と、「子供のうちからワープロを使わせると漢字が書けなくなるのではないか」という否定的意見はよく見るが、ワープロを教えるかどうかではなく、もしもワープロを使うとしたらそれによって何を学ばせるかを問題にすべきではないか。ワープロを使うこと自体が目的化してはいないだろうか。

 このことは、我々大人がワープロを使って何を成しているのか(あるいは成そうとしているのか)を抜きにしては考えられない。ワープロを単なる清書機械、高級な筆記用具として使っているだけならば、わざわざ学校で使い方を教えるまでもない。

 そうではないような何らかの目標があってワープロやコンピュータを教育の場に導入するのならば、それはそれで構わない。ただし、少なくとも子供たちの健康に与える影響を充分に考慮しなくてはならない。特に、大人用の打ちにくいキーボードを使わせることや、狭い机にCRTを置くような学習環境には、大いに疑問を感じる。

メディアの活かし方

 活字メディアではワープロ批判の輪が拡がりつつあるのかもしれない。しかし、活字メディアに掲載された文章を網羅的に検索するのはほとんど不可能であり、また、読み捨てられるメディアでは後から議論に加わる人が原文を参照するのが難しい。有意義な問題提起がなされても、一部の読者の間でしか共有できないのは残念なことだ。

 電子メディア、特にネットワークには、そのような制約は少ない。ワープロのように多くの人が日常使う道具について多面的に議論するには、誰にでも対等に発言する機会のあるネットワークの方が適しているのではなかろうか。

 活字にもネットにもそれぞれの良さがある。手書きとキーボード入力についても、二者択一でなく、場合に応じて使い分ければいいではないか。


付記

 これを読んでいる人の大半は、現にワープロやパソコンを使っている人たちだろう。ワープロやパソコンを敬遠している人たちに紹介していただければ有り難い。
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