2009年7月アーカイブ

 住宅がそんなふうだから、当然、衣と食も悲惨なことになっている。

このように住まいのつくりは悪いとはいっても、手足の垢切れ、ノミ、シラミ、肘の苔にいたるまで足りないということはない。元手がないので商いもせず、作物を作らないので食べ物もない。四五日の間に一度も起き上がらずに寝て暮らしていた。

 早い話が、ダンボールハウスにニートが寝転がってるようなものだ。(ここまで適当に逐語訳をやってきたけれども、以下は適当に要約する)

 あるとき、親切な人が餅を五つくれたので、待ってましたと四個食ってしまった。残りの一個は次に誰かが何かをくれるまで大事に取っておこうと思って、寝転がって弄んでいた。そのうち手が滑って餅が大通りまで転がっていった。物くさ太郎は拾うのも面倒だ、そのうち誰か通るだろうと思って、竹竿で犬やカラスを追っ払いながらずっと待ったが誰も来ない。
 三日後、あたらしの郷の地頭、左衛門尉のぶよりという人が通りかかった。小鷹狩りの帰途で五六十騎のお供を引き連れている。それを見た物くさ太郎は、そこの餅を取ってくれと言ったが、耳も貸さずに通り過ぎて行った。馬から下りて拾ってくれるぐらい簡単なことじゃないかと思い、「ああ、ひどい殿だ」と腹立ち紛れにつぶやいた。それを聞いた左衛門尉は腹を立て「物くさ太郎とかいうやつは、おまえか」と言う。「そうです」「お前はどうやって暮らしているのか」「人が何かくれた時は何でも食べます。くれないときは四五日でも十日でも、ただ空しく過ぎます」「不憫なやつだな。土地を耕して暮らせ」「土地は持ってません」「ならば与えよう」「面倒くさいので欲しくありません」「商いをして暮らせ」「元手がありません」「与えよう」「今さら不慣れなことはできません」「困ったやつだな。それなら助かるようにしてやろう」と言って、以下のようなお触れを出した。

この物くさ太郎に、毎日三合の飯を二度食わせて、酒を一度飲ませること。これができない者は領内に住んではならない

 これを見た百姓たちは「そんな無茶な」と思ったが、三年間、物くさ太郎を養った。

 しかし、さすがに三年もの間、ただで食わせてやるほど甘くはない。国司から、長期間の使役を一人割り当てられたので、百姓たちは相談して、物ぐさ太郎にやらせようということになった。

 「物くさ太郎さん、重大な夫役に当たってしまいました。助けてください」「それは何ですか」「長夫というものが当たったのです」「それは何尋ぐらいの長さの物ですか」「いやいや、そのような長い物じゃなくて、私たちの中から選んだ人を都に上らせて仕事をさせることを長夫というのです」

 このようにして、あれこれと説得するけれども、物ぐさ太郎はなかなかうんとは言わない。そこで、ある人が「都の人は田舎の人よりも情が厚い。どんな人でも嫌がらずに夫婦になるという慣わしがあります。都に上って情深い心をもつ人と一緒になってみませんか」などと言いくるめて、物ぐさ太郎をやっとその気にさせた。百姓たちはみんな大喜びで旅費を出し合って、物ぐさ太郎を都に送り出す。

 この後の話がさらに凄いのだが、今日はここまで。

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 転がった餅を拾うのも億劫がるような物ぐさ太郎が、わざわざ京へ行って働こうと決心したのだから、これは並み大抵のモチベーションではなかっただろう。

 七日かかって京に着いた。物ぐさ太郎が「私は信濃の国から参りました長夫でございます」と言うと、人々は「あれほど黒くて汚げな人も、この世にいるもんだ」と笑ったが、大納言は「どんな風体でも真面目に仕えるならよいだろう」と言って働かせた。
 都の様子は信濃の国とは比べようもなく興味深く尊いものだった。太郎は少しも面倒くさそうな態度を見せなかった。これほど真面目に仕える者はいないと、三ヶ月のところを七ヶ月に延長され、ようやく十一月になるころに暇をもらって国に帰ることになった。

 意外なことに、仕事は真面目にやっている。おそらく、お楽しみは最後までとっておくタイプの人間なのだろう。

 宿に戻り、「都に上るときには、良い女房を連れて帰ろうと言ったのに、一人で帰るのは、あまりにさびしい」と思って、宿屋の亭主に「私のような者の妻になろうという女を一人さがしてください」と言ってみた。すると亭主は「どんな者が、あんたの女房になるだろう」と笑ったが、「さがすのは簡単だが、夫婦になるのは大変なことだ。色好みをさがして呼ぶのがいい」と言う。「色好みとは何のことだ」「主のいない女を呼んで料金を支払って逢うことだ」「それなら、呼んでください。帰りの小遣いが十二三文あるので」
 宿の亭主は、こいつほどの愚か者はいないと思って、こう言った。「そういうことなら、辻取りをしなさい」「辻取りとは何のことだ」「男もつれず輿車にも乗っていなくて見た目がよく自分の気に入った女房を取ることだ。天下の御ゆるしで、そういうのがあるんだ」「そういうことだったら、取ってみよう」「今日は縁日があるから、清水に参って狙うといい」

 要するに、金がないやつは人の集まるところへ行ってナンパしろということだ。

 十一月十八日のことなので冷たい風が激しく吹いている。そんな中で、信濃にいたときから着古した何色ともいえず模様も見えない麻布の帷子を、荒縄を帯にして着て、踵のない物ぐさ草履の破れているのを履き、呉竹の杖をついて、鼻をすすりながら清水の大門に立ちっぱなしで大手を広げて待っていると、参拝帰りの人々は恐ろしがってみんな避けて通る。近づく人は一人もいない。このようにして朝から日暮れまで、あれも駄目だ、これも駄目だと決めかねているところに、一人の女が近づいてきた。

 まさか、そんな物好き(物ぐさ好き?)がいるとは思わなかった。この女、一体何者なのか…。


【店主より】
 ここまでは原典の筋を追ってきましたが、この先はとんでもない展開になっています。それをただ要約してもつまらないので、次回からは残念な味つけをする予定です。原典を味わいたい方は、どうぞ『御伽草子』を読んでください。

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 清水寺の大門で、朝から日暮れまで嫁さがしをしている物ぐさ太郎。みんなは避けて通るのに、一人の女が近づいてくる。年の頃は十五六。粗末な帷子を着ているが、手足の先の美しさを見て、「これこそがさがし求めていた人に違いない」と物ぐさ太郎は思った。ただし残念なことに、大きな鉢をかぶっているので顔が見えない。
 鉢かづきは、物ぐさ太郎の目の前まで来て、急に立ち止まった。そこに人が立っていることに初めて気付いたのだった。物ぐさ太郎は着ている服の裾を切り、次のような歌を書いて渡した。

かづけども鉢の中にはさぐられで風吹くごとにうきしづむはな
(あなたはそうやって鉢をかぶっていますが、私はその中のお顔を伺い知ることもできず、秋風が吹くたびに鼻水が出たり引っ込んだりしています)

 これを読んだ鉢かづきは、声を立てて笑った後、こう返歌した。

信濃なる浅間の嶽に立つ煙をちこち人の見やはとがめぬ
(このような所では浅間山に立ち上る煙のように目立ってしまい、人に見咎められてしまいます)

 そして、鉢かづきは歩きだした。物ぐさ太郎は浮き立つような足取りでついて行った。

 大きな御殿に着いた。鉢かづきが裏門から入るのについて行くと、そこには立派な湯殿があった。
 「夜中過ぎまで、ここで待っていてください」
 そう言い残して、鉢かづきは湯殿の中へ入っていった。物ぐさ太郎は、焚き口の近くにごろりと横になり、鉢かづきが道々語った身の上話を何度も思い返しながら待った。

 「太郎さん、太郎さん」
 うとうとしていた物ぐさ太郎は、鉢かづきの声で飛び起きた。
 「お待たせして御免なさい。こちらへどうぞ」
 湯殿の中に招き入れられた。まだ湯気が立ち籠めている。服を脱ぎ、さっそく湯に入ろうとすると、鉢かづきに押し止められた。
 「まず、お体にたまった垢を流してください」
 言われたとおりにごしごしと擦ると、垢が出た。さらに、ごしごしと擦ると、まだ垢が出た。さらにまたごしごしと擦ると、驚き呆れるほどの垢が出て、垢の山ができた。
 物ぐさ太郎は、これだけ垢を落とせばもう大丈夫だろうと湯に飛び込んだが、湯の底に足が届かずに溺れてしまった。すぐに異変に気付いた鉢かづきが助け出してくれたからよかったけれども、誰もいなければ命を落とすところだった。
 「死ぬかと思った」
 「それも困りますが…」
 鉢かづきは物悲しげな声で、こう続けた。
 「まさか、こんなことになるなんて」
 確かに物ぐさ太郎は見違えるようにきれいになったが、垢を落としすぎて一寸法師になってしまっていた。

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――鉢かづきは、物ぐさ太郎を導きながら、次のように語った。

 これから参りますところは、私がお仕えしている御方の御殿です。このような姿になって家を追い出され、行くあてもなくさまよっていた私を、その御方が拾ってくれたのです。
 この鉢は、母上が亡くなるときに手箱から取り出して私の頭に乗せてくださった形見の品です。不思議なことに、どんなに引っ張っても頭から離れないのです。母上は観音様を信心しておりましたので、何かいわれがあるのだろうと思います。
 母上を亡くしたうえに娘の私までこんなことになってしまったので、父上は長く嘆き悲しんでおられました。ところが、継母が来てから、父上は急に私につらくあたるようになりました。そして、とうとう私は追い出されてしまいました。
 私を見た人は、おかしがって笑うか、気味悪がって逃げるかするばかりです。亡き母の許へと思ったことは幾度かありましたが、それも果たせずにいるうちに、さる御方の御殿に連れて行かれました。何の取り柄もない私は湯殿で働くことになり、朝から晩まで掃除をしたり水汲みをしたり火を起こしたりと慣れない仕事に追い立てられて暮らしておりましたが、清水寺の縁日があると聞いて、今日は一日だけお暇をいただいて観音様に願をかけて参りました。
 こんな私を見て、笑いもせず恐がりもせず、太郎さんは面白い歌で笑わせてくださいました。思えば母上が亡くなってから、笑ったことなど一度もありませんでした。太郎さんが嫁さがしをしておいでだと聞いて、これはきっと観音様の御導きだと思いました。
 これがその御殿です。さあ、こちらの門からお入りください。

――そして、鉢かづきは物ぐさ太郎を湯殿へと案内した。

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 垢を落としすぎて一寸法師になった物ぐさ太郎を見て、鉢かづきが嘆いている。念のために言っておくが、一寸法師になったのは物ぐさ太郎の体の一部ではなく全身である。そのような下品なことを妄想する読者はいないと思うけれども、作者は、どちらにするか昨日一日かかって迷いに迷った。


【店主からのお願い】
 心ある読者の皆さんは既にお気付きかと思いますが、このタイトルはマッド・アマノさんの『パロディって何なのさ。』に収録されている、あの作品のキャプションをもじったものです。以下の内容には、その作品のネタバラシが含まれておりますので、万一、原典をまだ御覧になっていないという方がいらっしゃったら、うっかり読まないように御注意ください。


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 物ぐさ太郎は、鬼退治をして打出の小槌を手に入れようと決意した。そこで、鉢かづきにお椀と箸と針を持ってきてほしいと頼んだが、持ってきたものは茶碗と箸と針だった。
 「わしは、お椀と言ったはずぢゃぞ。ちゃわんと聞いていなかったな」と、夫婦になったとたんに調子に乗って親父ギャグをとばす物ぐさ太郎。
 「余分なお椀がありませんでしたので、どうか茶碗でがまんしてください」
 浮かぬ顔をしている物ぐさ太郎に、申し分けなさそうに言う鉢かづき。いやいや、それは親父ギャグがスルーされたせいだと思うよ。

 麦藁の鞘に針の刀を納め、箸の櫂を手に持って、茶碗の船を川に浮かべ、いよいよ出発ということになった。鉢かづきは別れを惜しみ、なかなか茶碗から手を離すことができずにいるようだ。
 「そうぢゃった。行ってきますのチューを忘れておったな」などと言って、鉢かづきの唇に顔を近づける物ぐさ太郎。すると、鉢の隙間から、きらりと光るしずくがほろりと落ちて、物ぐさ太郎の顔へとかかる。
 「何ぢゃ、泣いておるのか」
 「いいえ、そうではありません」
 涙のしずくと見えたものは、ふるふるとふるえながら物ぐさ太郎の頭を包んでいって、玉の形となって固まった。
 「こ、これは、何ぢゃ!」
 物ぐさ太郎は、不思議な玉の中で叫んだが、それは独特の甲高い声となって聞こえる。この意外な出来事に驚いて思わず手を離してしまった鉢かづきは、流れ始めた茶碗の船に向かって、一言。
 「どうか御無事で」

 「…と、そのようなわけで、鬼退治に出発したのぢゃが、この不思議な玉から頭を引っこ抜こうとしておるうちに、大きな岩にぶつかって、転覆してしもうたのぢゃ」と、一寸法師になったうえに不思議な玉から頭が抜けなくなって独特の甲高い声となった物ぐさ太郎が説明している。
 川べりで、それを聞いているのはピンクの豚。一寸法師になったうえに不思議な玉から頭が抜けなくなって独特の甲高い声となった物ぐさ太郎が川に流されているのを逸早く発見して救出したのであった。
 一寸法師になったうえに不思議な玉から頭が抜けなくなって独特の甲高い声となった物ぐさ太郎の頭から外せない不思議な玉には「目」の文字が浮かびあがっている。それをじっと見ていたピンクの豚は首をかしげて、頭上に大きな「?」マークを浮かべた。
 そこへ×××姫がやってきて同時通訳を始めた。
 「確かに、あなたは丸頭ですが、私の知っている丸頭ではありません」

 そこへ、猿や熊や馬や禁太郎や河童の姫が集まってきて、一寸法師になったうえに不思議な玉から頭が抜けなくなって独特の甲高い声となった物ぐさ太郎を取り囲んで、「何だ何だ」「どうした?」「一寸法師ですか?」「あっ、この玉は…」「まあ、かわいい!」と口々に言い合った。「新しいなまかだ!」「でも、こいつ裸だぞ」「うーん、どこかで見たような…」「何が好物だろうなあ?」「きっとキュウリよ!」
 そして、一寸法師になったうえに不思議な玉から頭が抜けなくなって独特の甲高い声となった物ぐさ太郎を川から助け出したピンクの豚が例の踊りを踊り始めたのを見て、一寸法師になったうえに不思議な玉から頭が抜けなくなって独特の甲高い声となった物ぐさ太郎の頭から不思議な玉を外してやろうと考えた×××姫が幣を取り出して例の〔お祓い〕を始めた。

 「これは、面倒くさいことになってしまったなあ」と、菰で作った屋根の下に寝転がったままの物ぐさ太郎は思った。「それに、さすがに腹も減ってきた」と、手で弄んでいた残り一個の餅を口に放り込んだ。パクリ。

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 ピンクの豚が川面を眺めていると、×××姫がやって来た。
 「何を見てるの?」
 「……」
 猿と熊と馬と禁太郎と河童の姫も集まって来た。
 「何だ何だ」「どうした?」「何かあったんですか」「あっ、この感じは…」「デジャヴ?」
 その背後から、犬神の声がした。
 「今、一つの世界が消滅した」

 「それは一体、どういうことですか?」
 「正確には、一つの可能性が閉ざされたと言うべきかもしれない」
 「もっと分かりやすく言ってよ」
 「ここで、ある男が新しい仲間になるはずだった」
 「新しいなまか?」
 「そうだ。ところが、その男が跡形もなく消えてしまった」
 「死んだんですか?」
 「いや、生きている。別人としてだが」
 「元に戻せばいいじゃないですか」
 「もう無理だ。その別人が本来の姿だったのだから」
 「なぜだよ。やってみなきゃ分からないだろ!」
 「何万回やってみても、結果はどれも同じだろう」
 「どうしてそんなことが分かるんですか?」
 「君は、私に禁太郎飴をくれなかったね」
 「そういえば…。うっかりしてました、すみません」
 「いや、それでいいんだ。私が禁太郎飴を食べた世界は、全部消えてしまったのだから」
 「えっ……」
 「つまり、そういうことなんだ」
 「そんなのは、ただの偶然じゃないですか」
 「そうだ」
 「偶然なら、消えないことだってあるでしょう?」
 「もちろんだ。だから今、我々はここにいる」
 「じゃあ、その男が消えない場合だってあるはずです」
 「いや、それはないんだ」
 「訳が分からないな」
 「その男が消えたのは必然だった」
 「なぜ、そんなことが分かるんですか」
 「作者が最初からそのつもりで彼を登場させたからだ」
 「何のために?」
 「我々に警告するためだ。戦いに敗れたときには、こういうことになる、と」

 その場の全員が、疑わしそうな目で犬神を見ている。
 「作者がそこまで考えているなんて信じられない、という顔をしているな」
 犬神の顔に、動揺の色が滲み出てきた。
 「では、こうしよう。君たちの持っている玉を見せてくれ」

 禁太郎が玉を出した。「禁」の文字が浮かび上がっている。
 河童の姫が玉を出した。「金」の文字が浮かび上がっている。
 ピンクの豚が玉を出した。「矢」の文字が浮かび上がっている。

 「ここまでは既出だな。他の三個を見れば、作者の意図がはっきり分かるだろう」

 熊が玉を出した。「熊」の文字が浮かび上がっている。
 猿が玉を出した。「猿」の文字が浮かび上がっている。
 馬が玉を出した。「馬」の文字が浮かび上がっている。

 「何も考えてないじゃん!」
 全員に突っ込まれた犬神は、大きく息を吸って、長く尾を引く遠吠えをした。

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 川べりに立って、熊が禁太郎と話している。
 「どうも怪しいな、犬神のやつ」
 「やつなんて言うなよ。神様なんだから」
 「世界が消えたとか作者がどうしたとか妙なことを言ってたし」
 「神様だから、いろんなことをお見通しなんだろう」
 「中に作者が入ってるんじゃないか」
 「まさか、そ」ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・何が起こったのか分からない。ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・二人の背後で鞭打つような音がしている。ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・振り返るとそこには犬神の姿があった。ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・犬神はその音に合わせて細かく体を跳ね上がらせている。ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ・ピシ。音が止み、犬神は倒れた。
 禁太郎は犬神のもとへと走った。
 少し離れていたところにいた猿が飛び上がった。
 熊は「死亡フラグだったか」とつぶやき、その場に立ち尽くしている。
 「あいつだ!」
 空中から猿の叫び声が聞こえ、馬が大きく嘶いて川に飛び込んだ。
 土手に座ってピンクの豚と何かを話していた河童の姫と×××姫は、あまりの出来事に悲鳴をあげることさえできずにいた。
 「しっかりしろ!」
 禁太郎が犬神のぐったりした体を抱きかかえている。その脇で熊は「俺のせいだ。さっきあんなことを言ったから…」とうなだれている。
 馬が対岸に駆け付けたときには、猿は狙撃者を取り押さえていた。
 「何てことしやがる! おめえは一体何者だ?」
 「離せ離せ、離してくれ」
 「蹴っ飛ばしてやりましょうか」
 「分かった分かった、話すから話すから」

 ぐるぐる巻きにした狙撃者を馬の背に乗せて、猿が戻ってきた。×××姫は犬神に取りすがり、涙を流して…。おや? 泣いていないぞ。笑ってるのか?
 禁太郎も熊も河童の姫もピンクの豚も、犬神を囲んで大笑いをしている。そして、犬神は、狙撃者の姿を見ると、吠えかかった。
 「やいこら、金碗大輔。あんたは何回俺を殺す気だ?」
 すると、捕われた狙撃者はこう言い返した。
 「久しぶりだな、八房。今はヽ大法師だ。僧の身ゆえ殺生などせぬぞ」
 「僧か。それで数珠玉なんかを投げつけやがったのか」
 「百発百中だ。たいした腕だろ」
 「ふん。何しに来た?」
 「そいつは御挨拶だな。お前が命拾いしたのは誰のおかげだったか、忘れたわけじゃあるまい」
 「忘れるもんか。何かというとすぐその話だ。耳にタコができてる」

 「そんな訳で、伏姫の想像妊娠騒ぎを丸く納めて、俺はこいつらと一緒に八犬士を捜す旅に出た、という次第でな」
 この話、原典を知らない人には何のことやらさっぱり分からないだろうが、心配することはない。原典を知っていてもやっぱり分からないから。
 「ところがある朝、目が覚めたら二人ともいなくなっていたんだな…」
 どうやら長くなりそうだ。続きは次回、「ヽ大法師の話」で。

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――ヽ大法師は、以下のように語った。

 何だ。最初から話せだと。面倒だな。分かった分かった。こうしてつべこべ言うておる時間が勿体ない。最初から話してやろう。そもそもは義実公が…。そうそう、その伏姫の父君がだ、そこにおる犬の八房めに「敵の大将を食い殺せば褒美をとらせよう」と、ほんの戯れで仰せになったんじゃ。もちろん戯れ言だったのだが、それをこのずうずうしい犬は真に受けおって、生意気にも駆け引きまでしやがった。
 「しからば、魚や肉をたらふく食わせようか」(→ぷいと背を向けた)「それじゃ、職を与えようか」(→無反応)「あるいは、領地をやろうか」(→無視)「それもいらんというのなら、伏姫を嫁にやろうか」(→以下参照)

このときにこそ八房は、尾を振り、頭をもたげつつ、瞬きもせず主の顔を、熟視てわわと吠えしかば、義実ほほ、とうち笑ひ、「げに伏姫は予に等しく、汝を愛するものなれば、得まほしとこそ思うらめ。こと成るときは女婿にせん」と宣はす。
(曲亭馬琴/石川博 編『ビギナーズ・クラシックス 南総里見八犬伝』角川ソフィア文庫)

 このド助兵衛犬めが。

――ここまで黙って聞いていた犬神こと八房は、ヽ大法師こと金碗大輔に飛びかかった。

 なんだと、こっちが大人しく聞いてりゃ言いたい放題言いやがって、この生臭坊主。元はといえば、あんたがヘマをこいて安西景連にとっつかまったせいで、滝田城が包囲されて絶体絶命のピンチになっちまったんじゃないか。てめえの金玉袋食い破って二個の金玉取り出してやろうか。

――するとヽ大法師が言い返す。

 玉なしの犬畜生めが何をほざくか。お前が館山に伏姫様を連れ込んで日毎夜毎に変態プレイを無理強いしていると聞いて駆け付けたあのときに、いっそ撃ち殺してしまえばよかった。

――以下、八房とヽ大法師の掛け合いが続く。

「やっぱりお前だったのか。二つ玉の銃で俺の金玉を撃ったのは。後ろから撃つとは、武士の風上にも置けない卑怯者め」「くたばり損ないが何を言う。あのとき、お前の二個の金玉を撃ち抜かなければ、一体どうなっていたかと考えるだに身の毛もよだつわい。この変態犬」「
ありもしないことを抜かしやがって、この嘘吐き坊主め。あのときは、伏姫に取り憑いていた気を吸い出しておっただけだ。俺の金玉にその気が宿っていたから良かったようなものの、そうでなければ伏姫は流れ弾を受けてしまうところだったんだぞ」「語るに落ちるとはこのことだ。やはり俺が睨んだ通り、そういう淫猥な行為に耽っておったわけだな、腐れ金玉のオカルト犬」「手前勝手に膨らませた妄想で無責任なことを言い触らしやがったな。俺の金玉が弾け飛んで八個の数珠玉になったという流言蜚語のおかげで俺たちがどんなに肩身の狭い思いをしたことか。何もかも全部てめえのせいだぞ。この破戒金玉妄想坊主めが」

世の中に、神(カみ)も仏(ホとけ)もナいものか!
(ラリイ・ニーヴン/小隅黎 訳『リングワールド』ハヤカワ文庫)

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 ヽ大と八房の罵り合いを聞いているのに飽きたのか、その場から抜け出したピンクの豚が河原を歩いている。
 何か光るものあった。まわりを見ると同じものがあちこちに落ちている。ピンクの豚は一つずつ匂いを嗅ぎながら拾い始めた。

 すると川上から、大きなドングリがドンブラコ、ドンブラコと流れてきました。
 そのあとを、巨大なドジョウが追いかけてきて、一緒に遊びましょうと言いました。

 すると川上から、大きなドンブリにのった巨大な一寸法師が流れてきました。
 そのあとを、巨大な打出の小槌が追いかけてきて、大きくなあれ、大きくなあれ。

 すると川上から、大きな腿がドンブラコ、ドンブラコと流れてきました。
 また、バラバラ事件か?

 すると川上から、肉をくわえた一休さんが流れてきました。
 なんだ、違ったのか。

 すると川上から、虎が流れてきました。
 「元に戻してくれ~」

 すると川上から、眼鏡をかけた老紳士が流れてきました。
 「元に戻してくれ~」

 すると川上から、ふやけた鯛焼きが流れてきました。
 「海はまだかー」

 すると川上から、そうめんが流れてきました。
 「夏ですねー」

 すると川上から、うどんとスパゲティが流れてきました。
 「食べ物を粗末にしてはいけませんねー」

 すると川上から、猫が流れてきました。
 そのあとを、「ぬこー」「動物虐待」「死ね」などの色とりどりの文字がいっぱい流れていきました。

 すると川上から、鍋が流れてきました。
 「そうだ、今夜は猫鍋にしよう」

 すると川上から、毛むくじゃらのエイリアンが流れてきました。
 「冗談だって」

 すると川上から、口の曲がった鮭が流れてきました。
 「また流れを読み間違ったか」

 すると川上から、蛙が流れてきました。
 水が濁っていて、水面下はよく見えませんでした。

 すると川上から、河童が流れてきました。
 これは説明不要ですね。

 すると川上から、瓶に入った手紙が流れてきました。
 たぶん上流には無人島があるのでしょう。

 すると川上から、椰子の木の生えた島が流れてきました。
 ほら、やっぱりね。

 すると川上から、釣り竿が流れてきました。
 そのあとから、「待ってくれー」と言う声が…。

 すると川上から、太公望が流れてきました。
 なんだ、釣りじゃなかったのか。いや、やっぱり釣りか?

 すると川上から、車内アナウンスが流れてきました。
 「危険ですので、吊り革におつかまりください」

 すると川上から、白線が流れてきました。
 「白線の内側までおさがりください」

 すると川上から、長嶋が流れてきました。
 「次は藤田~、藤田です」

 すると川上から、トロッコに乗った熊が猛スピードで流れてきました。
 「くだらん!」

 すると川上から、勢いに乗った若手芸人が流れてきました。
 流れが早すぎて、もう誰が誰だかよく分かりません。

 すると川上から、テロップが流れてきました。
 流れが早すぎて、全然読めません。

 すると川上から、スモークが流れてきました。
 ドライアイスで地球を冷やそうとしているのでしょう。

 すると川上から、氷山が流れてきました。
 このあと意外な結末が…!

 すると川下から、船頭の多い船がやってきました。
 そして、氷山に上りました。

 すると上空から、ヘリコプターが降りてきました。
 「カット! やっぱりCGにしよう」

 すると川の中から、スタッフがぞろぞろ出てきました。
 「今さらそれはないでしょ~」

 すると川上から、クルーザーに乗ったプロデューサーが流れてきました。
 「予算オーバーだ」

 すると川上から、クルーゾーに乗ったピンクの豹が流れてきました。
 BGMに乗って、ピンクの豚も一緒に踊り始めました。

 「何をしてるの?」
 伏姫が声をかけると、ピンクの豚は踊りをやめて、拾い集めていた玉を見せた。
 「これは、ヽ大法師が八房に投げつけた数珠玉ね」
 河原には、まだたくさんの玉が落ちている。ピンクの豚と伏姫は溜め息をついた。

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 河原に座って罵り合うヽ大法師と八房の声がまだ続いている中で、ピンクの豚が数珠玉を拾い、伏姫は数珠玉に糸を通している。その糸には既に九十個余りの数珠玉が連なっていた。

 すると川上から、虎や大蛇やその他の動物たちがおおぜい泳いできた。
 「さあ、ジャングルへ帰ろう」

 すると川上から、大きな方舟が流れてきた。
 「待ってくれよー。今度こそ大洪水が来るんだってば」

 すると川上から、大きなシルクハットが流れてきた。
 その中から、得体の知れない妙な生き物が出てきて、ふわふわと飛んでいる。

 すると上空から、黒豹にまたがったマントの男が降りてきた。
 マントの男は大きなシルクハットを拾うと、再び空を翔けていった。

 すると川上から、変な形の家が流れてきた。
 その家の広い床を、お婆さんがせっせと掃除している。

 すると川上から、舟に乗った鉢かづきが流れてきた。
 その舟には、すやすやと眠っている三才ほどのおさな子の姿もあった。

 「ちょっと待って!」と伏姫が叫び、川の中へと駆け出した。
 ピンクの豚は、最後に残った数珠玉を拾い上げ、鼻に近づけ匂いを嗅いだ。そして、思いっきり吸った。

 すると川上から、茶碗に乗った一寸法師が流れてきた。
 その頭には、不思議な玉をかぶっている。

 「!」マークを頭上に浮かべ、ピンクの豚が川に飛び込んだ。

 鉢かづきとの感動の再会を果たした一寸法師に、ヽ大法師が言った。
 「あんたのせいで、どえらい目にあったぞ」
 「まったくだ。こんな糞坊主まで出てきやがって、いい迷惑だ」
 「なんだと、この犬神まがい」
 「何を言うか、この俄坊主」

 おさな子を抱きかかえた鉢かづきに、伏姫が尋ねた。
 「この子の名は?」
 「名前はまだ…」
 すると、一寸法師がおさな子によじのぼって甲高い声で言った。
 「おい起きろ、寝太郎!」

 こうして、三人を乗せた舟は、川上へと帰っていった。
 舟の舳先に結わえつけた綱を引いているのは、得体の知れない妙な生き物だ。
 「これで、めでたし、めでたし、だな」
 ヽ大法師が満足そうに言うと、八房は不満げに吠えた。
 「あんたはいつまで居座る気だ?」

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 さっきからどうも口数が少ないと思ったら、禁太郎たちは河原に座り込んで何事かに打ち興じている。

ヽ大法師「あいつら、何をやってるんだ?」
八房「さあ…」
ヽ大法師「花札でもやってるのか」
伏姫「手に手に鼻紙入れのようなものを持っていますが…」
ヽ大法師「おっ、何だか面白そうだな。俺にもやらせろ」
八房「おいっ。そんなものに手を出すと、大変なことになるぞ!」

ピンクの豚が踊りを踊った!


 そのようなわけで、禁太郎たちの物語はしばらく進みそうもない。念のために言っておくが、今回手抜きをしたように見えるのは、ネタ切れになったからだ。作者が鼻紙入れのようなものにうつつを抜かしているなどというようなことは断じてない。第一、鼻紙入れのようなものなど持っていないのだ。もしも、鼻紙入れのようなものを持っていたら今ごろどんなことになっていたか…。想像するだに恐ろしい。

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 空飛ぶ島の夢から目覚めたとき、ジョナサンは元の屋根裏部屋にいた。握り締めていた手を開くと、そこにはドングリがあった。ここで眠るときに手に持っていたのだと考えたが、夢の中から持ち帰ったものであるような気もする。

 それ以来、ジョナサンはそのドングリがないと眠れなくなった。しかし、ドングリを持って眠ると必ず悪夢にうなされた。あるときは怪しげな降霊術に参加し、あるときは薄気味の悪い不死人間に会い、あるときは“踏み絵”を踏まされそうになった。
 あの伯爵に圧倒され、なす術もなく逃げ帰ったことが尾を引いているのかもしれない。それでもジョナサンは、ドングリを手放せなくなっていた。もしかすると、あの少女にもう一度会えることを密かに期待していたのかもしれない。

 こうして、ジョナサンの見る悪夢は、次第に無気味さを増していった。
 そして、次の悪夢は、馬の蹄の音から始まった。

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若者

 ジョナサンは若者になっていた。生い茂った茨の森の奥深くの古城の中で百年間眠り続けているという伝説の茨姫を起こすことのできる勇敢な若者に。ジョナサンは思った。とうとうここまで来たぞ。二度にわたって俺の夢の中にいきなり現われて何もかもめちゃめちゃにしてくれたあの小生意気な娘に今度こそ一矢報いてやる。その憤怒なのか倒錯した欲情なのか分からない青黒い感情は馬の背中から伝わってくる振動とともにジョナサンの股間にあるものを刺激し続けている。

荒馬

 ジョナサンは荒馬になっていた。生い茂った茨の森の奥深くの古城の中で百年間眠り続けているという伝説の茨姫を起こすことのできる勇敢な若者を背に乗せて駆ける荒馬に。ジョナサンは思った。なんでよりによってヤフーなんかが俺の背中に乗っているんだ。こんな愚かな家畜なんか振り落としてやる。ジョナサンは背中にかかる体重に向かって激しい怒りをぶつけると同時に太股ではさんだ馬の背が激しく揺れるのを感じている。俺を振り落とそうとしているな。このじゃじゃ馬め。そうはさせるもんか。怒りのためか嗜虐的な妄想のせいか単に揺れに刺激されただけなのかジョナサンの股間にあるものが次第にいきり立ってきた。

茨姫

 ジョナサンは茨姫になっていた。生い茂った茨の森の奥深くの古城の中で百年間眠り続けているという伝説の茨姫を起こすことのできる勇敢な若者を背に乗せて駆ける荒馬の蹄の音をまどろみの中で聞いている茨姫に。ジョナサンは思った。ああ、とうとう今度こそ本当に白馬に乗った王子様が私の眠りを覚ましにやってくるんだわ。胸のときめきが全身に響き渡っていくのと同時にジョナサンはいきり立ってきたもののある股間に激しい揺れを受けながら得も言えぬ甘美な陶酔感が広がっていくのを感じていた。このじゃじゃ馬め。何をそんなに興奮しているのだ。このあばずれ娘め。何を勘違いしていやがるんだ。このヤフーめ。俺の背中で妙な動きをするんじゃない。ああ。王子様。今に見ていろ。振り落としてやる。早く口づけを。もうすぐそこだ。ただじゃおかないぞ。何だこいつは。ええい気持ち悪い。何なの。この感じは。私はどうなっちゃったの。ヤフーめ。じゃじゃ馬娘め。ああ。早く来て。おかしくなってしまいそう。そこで大人しく待っていろ。もう我慢ならん。

 勇敢な若者を乗せた荒馬の蹄の音が生い茂った茨の森の奥深くの古城の中で眠り続けている茨姫に刻一刻と近づいている。

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 勇敢な若者であると同時に疾走する馬でもあり目覚めそうな茨姫でもあるジョナサンは誰の背中だか誰の股間だか分からない部分が誰の汗なのか誰の体液なのか分からない液体でぬるぬるして気持ちが良いのか悪いのかも分からない不確定な状態になってきた。このまま事態が進行すれば必ずやこの不確定な状態がより一層ひどくなるに違いないと頭の片隅で確信したのと同時に城に到着したことに若者の目と馬の目と茨姫の耳で気付いた。

貴族

 ジョナサンは貴族になっていた。長椅子にくつろいでいる貴族の女に。部屋の調度は贅を凝らしたものであったがどこか隠微な雰囲気を漂わせている。荒馬の背で激しく揺られていた名残りなのか空飛ぶ島の城の中にいたときのような微かな浮遊感がある。若者であるジョナサンがべとべとになった服を脱ぎ捨て城の近くを流れる川で水浴びをすると同時に貴族の女であるジョナサンは体の奥に激しくうずくものを感じ始めた。体の外の冷たさと体内の火照りが同居している。足を乗せていた台がもぞもぞと動き始めた。

家具

 ジョナサンは家具になっていた。長椅子にくつろいでいる貴族の女が足を乗せるために作られた家具に。家具であるジョナサンはもちろん全裸である。馬であるジョナサンの背中には若者が降りたあとの開放感があったが全裸の家具であるジョナサンの背中には貴族の女がのせた足の重みがある。しかしその感触は心地よい。川の水に潜りその錯綜した感覚を洗い流そうとしたが鋭敏な背中の神経が足の重みの微妙な変化を逐一報告してくるため溢れ出してくる陶酔感をどうしても拭い去ることはできない。あたかも足の主が女神であるかのような有り難さを感じつつ家具であるジョナサンは頭をもたげて女神の御神体に顔を近づけていった。川から出てきたジョナサンは家具の嗅覚で馥郁とした香りを感じている。家具の視覚は妙にぼやけていたが目の前に迫りくるものの形は見分けられた。その匂いに吐き気を催した勇敢な若者であるジョナサンが嘔吐しようと屈み込んで口を開くと家具であるジョナサンの口から驚くべき長さの舌がべろりと出てきた。貴族の女であるジョナサンはその舌の感触を味わい始めた。

乗物

 ジョナサンは乗物になっていた。長椅子にくつろいでいる貴族の女が足を乗せるために作られた家具が備えつけられている時空を旅する円盤状の乗物に。ジョナサンは少し脚をひらいて陶然とした貴族の女の目くるめくような感覚を乗物の視覚でも追認していた。乗物の遥か下方を流れる地上の風景は目まぐるしく変化している。慌ただしく雪が積もり雪が解け草木が生い茂り枯れていった。昼夜の区別は変化が速すぎて分からない。そんな風景の中に一つの城があった。その城の周辺を取り囲んだ緑色の帯はゆっくりと成長し続けていた。ジョナサンは胸騒ぎを覚え家具は激しく舌を動かし貴族の女は怒濤のような快感にのけぞり乗物は城に向かって急降下しはじめた。それは茨姫が眠っている城に違いなかった。地上にいる勇敢な若者であるジョナサンは裸のまま城の中へと駆け込んだ。

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 勇敢な若者である全裸のジョナサンが城の中へ駆け込む「どこにいる?」と同時に時空を旅する円盤形の乗物であるジョナサンが「ぶつかるぞ!」城に激突して意識を失った。その大音響と激しい揺れで眠りを破られた茨姫であるジョナサンは飛び起き「何なの?」城外にいた荒馬であるジョナサンは「ヤフーの乗物が落ちてきたぞ!」逃げていった。円盤形の乗物の中で長椅子で自慰に耽っていた貴族の女であるジョナサンは朦朧としたまま事態がのみ込めず貴族の女の股間に顔をうずめていた家具であるジョナサンは墜落の衝撃で舌を噛んで絶命した。

猛犬

 ジョナサンは猛犬になっていた。墜落した円盤形の乗物の中の長椅子で自慰に耽っていた貴族の女に飼われていた猛犬に。なんだわん。なんだなんだわんわん。なんだなんだなんだわんわんわん。すっかり混乱してしまった猛犬であるジョナサンは貴族の女であるジョナサンに咬みついてしまった。貴族の女であるジョナサンは叫ぼうとしたが全身が麻痺して動けなくなっている。しまったわん。ごしゅじんにかみついてしまったわんわん。猛犬であるジョナサンは困ってしまってわんわんわわんと吠えながら逃げていった。

馬人

 円盤の墜落を目撃した馬人であるジョナサンは家に逃げ帰って主人であるジョナサンに報告した。またヤフーが落ちてきたか。あいつらは全く救いようのない愚かな動物だな。そこへ猛犬であるジョナサンが血相を変えて飛び込んできた。たすけてくださいわんわんわん。まちがってごしゅじんにかみついてしまいましたわん。ころされてしまいますわんわん。大丈夫だ。そんなことを心配するな。おまえはここにいればいい。この家の主人であるジョナサンは円盤の墜落を報告した馬であるジョナサンに薬草の入った箱を持っていくように命じた。ああそうそう。このヤフーも連れて行くといい。ヤフーにしては賢いから何かの役に立つだろう。

ジョナサン

 馬人の家に身を寄せていたジョナサンであるジョナサンは馬人の主人であるジョナサンの指示に従って馬人であるジョナサンの後について行った。石造りの丈夫そうな城の中ほどに金属製の小さな円盤が斜めにめり込んでいた。たいした被害はなさそうだ。馬人であるジョナサンはジョナサンであるジョナサンに薬草の入った箱を持たせた。俺はこんなヤフーの巣窟には入りたくないから後はあんたが適当にやってくれ。静まり返った城の中に入ってみると人々はみんな眠っていた。熟睡していて円盤の墜落には誰も気付かなかったのだろう。もちろん怪我人は一人もいない。そこへ勇敢な若者であるジョナサンがやってきた。おい早く助けてくれ。早く茨姫を助けなければ。まあ落ち着いて。君は裸じゃないか。その茨姫とかいうのも裸のヤフーならそのまま行けばいいだろう。しかしこの城の人たちはみんな服を着ていたぞ。勇敢な若者であるジョナサンは脱ぎ捨てた服を取りに城の外へ走って行った。広いホールの床の少し上あたりの壁から円盤が半分ほど突き出している。その上部にあるハッチが一つ開いていた。あの小心者の犬はここから出てきたのだろう。円盤のつばの部分を上りハッチから中に入った。狭苦しい部屋の中にヤフーの臭気がこもっている。一匹のヤフーの雌が長椅子の上で股を開いて失神している。股間からは気味の悪い肉の塊が垂れ下がり床には血溜まりができている。雌の足元には異様な姿のヤフーが口らしき部分から血を流して死んでいた。何をやっていたのか想像したくもないが墜落の衝撃でこうなったのだろう。ジョナサンであるジョナサンはヤフーの雌に声をかけてみた。おい大丈夫か。しかし雌の返事はない。全身が麻痺しているらしいが呼吸はしているようだ。どうせ何かやばいドラッグでもやっていたのだろう。適当な薬草を取り出して火を点け鼻に近づけてやるとヤフーの雌は瞬いた。ジョナサンであるジョナサンは薬草を床に落として火を踏み消した。俺の言うことが分かるか。イエスなら一回ノーなら二回瞬きをしろ。するとヤフーの雌は瞬きを一回した。

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 分散していたジョナサンの意識は既に一つに収斂している。ジョナサンは長椅子に横たわり全身麻痺で硬直しているヤフーの雌への質問を続けた。なお、ヤフーの雌は瞬きの回数で答えることしかできない。

 「あんたの足元で舌を噛み切って死んでるやつはヤフーか?」
 瞬き一回。
 「あんたと俺は同じ種族だと思うか?」
 瞬き一回。
 「じゃあ、あんたもヤフーだということになるな」
 瞬き二回。
 「いいや、残念ながら俺はヤフーだし、あんたもヤフーなんだ」
 瞬き二回。
 「だったら『あんたも俺も人間だ』と言い換えてみようか」
 瞬き一回。
 「そうか。それなら、こいつも人間だろう?」
 瞬き二回。
 「強情なやつだな。まあいい。いつまでもそうやってればいいさ」
 瞬き二回。瞬き二回。
 「まったく。自分勝手なところはヤフーそのものじゃないか」
 瞬き二回。瞬き二回。瞬き二回。瞬き二回。
 「何か喋りたいのか?」
 瞬き一回。
 ジョナサンは床から拾った薬草に火を点け、ヤフーの雌に煙を嗅がせた。口が動かせるようになったヤフーの雌はすぐさま口笛を吹いた。しかし、何も起こらなかった。
 「あんたを咬んだ犬は、もうここにはいないよ」
 ヤフーの雌は目を閉じている。
 「何か喋りたかったんじゃないのか?」
 ヤフーの雌は歯を食いしばって必死に何かを耐えているようだ。
 「もう少し体が動けるようにしてやった方がいいのかな?」
 ジョナサンがヤフーの雌の鼻に薬草の煙を近づけると、ヤフーの雌は目を見開いて激しく瞬きを繰り返した。
 「さあ、もう少しで動けるようになるぞ」
 「あ。ああっ…」
 強ばっていたヤフーの雌の全身から緊張が解け、股間から黄色い液体が迸った。
 「やっぱりあんた、ヤフーだよ」
 ヤフーの雌の目は呆けたように焦点を失っている。
 「なんだ、もう壊れちまったか…」
 ジョナサンは新たな悪臭が漂い始めた円盤から立ち去った。
 円盤はぶるぶると震え出して、やがて粉々に砕け散った。
 「乗物の方も、見かけによらず脆かったな」

 城の外に出ると、馬人が待っていた。
 「ずいぶん遅かったな」
 「ちょっと手間取ったけど、大したことはなかったよ」
 ジョナサンは薬草の入った箱を馬人に返した。
 「薬草を一枚使っただけで片づいた」
 「さっき、雄のヤフーが出て来て服を拾って戻って行ったぞ」
 「そうか。それなら心配することはもう何もないな」
 ジョナサンは馬人と並んで、主人の待つ家へと向かった。

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 その後もジョナサンは馬人の夢を繰り返し何度も見た。最後に見た悪夢のような奇怪な現象が起きることはなくなったが、ジョナサンにとっては、むしろ現実の方が悪夢だったのかもしれない。晩年のジョナサンはよく馬の嘶きのような鼾をかいていたというが、おそらくそれは、夢の中で馬人たちと楽しく語り合っていたのが寝言となっていたものと思われる。

 ジョナサンは子供のころに見た無邪気な夢の続きをたまに見ることがあった。年を取るにつれて夢の内容は多少変化していったが、ジョナサンの空想力は時間や空間を軽々と飛び越えるのだった。自由自在に空を飛び、時を越え、宇宙を駆け巡っていたが、ジョナサンは決してそのことを誰にも話さなかった。

 火星に二個の衛星があることを、その発見以前にジョナサンが知っていたことは、長年のあいだ謎だと考えられてきたけれども、それらの衛星が実はジョナサンの空想の産物であるということを否定する材料を、天文学者たちは未だに発見していない(少なくとも公式には発表していない)。

 今からちょうど三百年前(1709年)にジョナサンが日本を訪れていたことを知る人は少ないが、長崎県立美術博物館には「ジョナサン・スウィフトが踏むことを免除されたキリスト像」(一般には『青銅のピエタ』と呼ばれる)が所蔵されていた。これは南蛮鋳物師の萩原裕佐によって製作されたものであり、美術的にも歴史的にも価値のある作品だった。しかし、2005年に同館が長崎県美術館と長崎歴史文化博物館に分割された際、「出島に行こうかそれとも立山に残ろうか」と思案橋あたりで悩んでいる姿が目撃されたのを最後に、行方不明になってしまったのは、返す返すも残念なことである。

 行方不明といえば、ジョナサンが眠るときに身につけていたドングリが誰の手に渡ったのかも分からない。どこかのオークションに出品されるのではないかと期待されているようだが、ジョナサンが嫌っていたヤフーではないことを願うばかりだ。

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 ジョナサンの私生活には謎が多い。14歳年下の“ステラ”という愛称の女性をダブリンに呼び寄せ、ロンドンでは24歳年下の“ヴァネッサ”という愛称の女性とも付き合っていたらしい。そのヴァネッサがダブリンにやって来ると、ジョナサンは急にステラと結婚する。その後それをヴァネッサが知ったために修羅場となったことはよく知られている(*1)が、実はそのほかにも“ミナ”という妻がロンドンにいた可能性がある。

 ある作家の小説に、ジョナサンの日記が引用されている。ジョナサンと同じダブリン生まれのその作家は、何らかのルートを通じてジョナサンの日記を入手したのだろうと推測できる。部分的な引用なので、書かれた年など詳しいことは分からないし、姓が“スウィフト”から“ハーカー”に変えられているが、その内容を読めば、『ガリヴァー旅行記』を書いた人物の日記であることは疑いようがない。

 その日記には、ジョナサンの旅行の様子が克明に記録されている。わざわざ速記文字を使っているのは、他人には知られたくない内容だったためだと考えられる。しばしば“ミナ”という妻の名が書かれていることは、十分にその裏付けになるだろう。

 どういう経緯があったのかは(引用された今までに読んだ範囲には)記されていないが、トランシルヴァニアの城に住む伯爵に招かれて、ジョナサンはロンドンから東ヨーロッパまで旅をすることになった。旅立つ前に、トランシルヴァニアに関する参考書と地図を入念に調査しているところが、いかにもジョナサンらしい。旅が始まると、刻々と変化する車窓から見た風景や食事の内容が事細かに記録されている。眺望の変化と新鮮な食材に乏しい船旅とは違って、ジョナサンが旅を大いに楽しんでいる様子が伺える。

 しかし、東ヨーロッパに入り、伯爵の居城に近づくにつれ、少しずつ不安の影が忍び寄ってくる。

 まず、東欧に入ってすぐに宿泊したホテルに関する記述に、「ゆうべはひと晩じゅう、なんだか雑多な妙な夢ばかり見て、おちおち眠れなかった。」(*2)とあるのは注目に値する。残念ながら夢の内容には触れられていないが、ジョナサンがそれを書かなかった筈はない。おそらく夢に関する記述は引用の際にカットされたのだろう。

 その後、伯爵に指定された宿屋で一泊し、伯爵に指定された乗合馬車で山道をひたすら進む。宿屋の女将や乗合馬車の乗客たちの妙な言動に、ジョナサンは不吉な予感を抱き始める。夜更けになり、峠で伯爵からの迎えの四輪馬車に乗り換えると、急に寒気がしてきた。

 馬車は同じ場所を何度も回り、村々の犬たちは遠吠えをし、馬は脅え、狼まで咆哮し、烈しい夜風が鳴り、枝が音を立て、粉雪が降り積もり、闇の中に青い火が浮かび、馭者は飛び降りてどこかへ行き、ジョナサンは恐怖を覚え、どうやらこれは夢ではないかという気がして、月が出て、馬車を取り囲んだ狼が一斉に哮え、馬は跳ね上がり、馭者が狼を追い払い、月が雲に隠れ、馬車は闇の中をひた走り、荒れ果てた大きな城の中庭に入った。


(*1)『ガリヴァー旅行記』(スウィフト 作/平井正穂 訳/岩波文庫)の「解説」を参照した。
(*2)『吸血鬼ドラキュラ』(ブラム・ストーカー 著/平井呈一 訳/創元推理文庫)より引用。以下、ジョナサンの日記の内容は同書による。

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 ジョナサンは日記を書きながら、伯爵の城に到着したときの記憶が曖昧なことに戸惑っている。眠っていたのだろうなんて書いてあるけれども、あのような恐怖を味わいながら一体どうやって眠れたというのか。もしも眠っていたのだとすれば、城に到着するまでの体験はすべて夢の中の出来事だったというつもりなのか。では、その夢はいつから始まっていたのだろう。馬車を乗り換えたときなのか、宿屋を出たときなのか、それともあのホテルで眠っていたときなのか。いずれにせよ、この日記を書いているのは、その夢の中で伯爵の城に到着したジョナサンであり、眠っている間に伯爵の城に到着したジョナサンはまだ日記を書いていない。

 いくら夢中だったとはいえ、ここまで微に入り細を穿って(しかも速記文字で)書き記すのは尋常なことではない。これは日記ではなく、旅行記の下書きだったのではないか。そんなことを考えながら続きを読むと、伯爵がこう言った。
 「わしがドラキュラじゃ。…などと言うと思うたら、とんだ大間違いじゃ」
 そう言って大笑いしている老人と握手を交わしながら、ジョナサンは馭者の馬鹿力を思い出した。
 「すると、あなたは一体誰なんですか? ここに来るまでに聞いた馭者の話では…」
 「ああ、あの馭者のやつめが、またホラー話をしおったな」
 「ということは…」
 ジョナサンは、嫌な予感がした。
 「わしは何を隠そう、かの有名なホラー吹き男爵なのじゃよ」

――しかし、このとき、暁の光が射し始めるのを見て、ホラー吹き男爵は慎ましく口を噤んだ。

 この意外な展開に、作者はあわてて『ほらふき男爵の冒険』をネットで発注した。

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 「何? 原典が届くまで何日か待ってくれじゃと?」

――しかし、ホラー吹き男爵は「事情が変わった」なんて言うこともなく、お構いなしに語り始めた。

耳でか裕二

 昔、耳のでかい裕二という男がおった。でかいのは耳だけではなくて、鼻の穴もでかかったそうじゃ。それだけなら別にどうということもない、ちょっと野生味のある顔をした見ようによってはなかなかの好青年だったのじゃが、言うことが妙にでかいということでな。それを物真似の種にして人々を笑わせている芸人がおったそうじゃ。ところがそれを知った裕二という男が本気で怒っておったという噂じゃが、態度がでかい割にケツの穴は小さかったということじゃな。

――ジョナサンが黙っていると、男爵はこう尋ねた。

 「どうした。この話、あまり恐くなかったか? じゃ、玉なし裕二の話をしてやろうか…」
 「いえ、その話も飽きるほど聞いているので、もう結構です。それに、あんまり恐くもないし…」
 「そうか。それじゃ、口曲がり太郎の話なんて、どうじゃろか?」
 「恐くもなければ面白くもないですね」
 「じゃ、腹切り由紀夫はどうじゃ? これは恐かろう」
 「えーっと。この先どうなるのかまだ分かりませんが、どっちにしろ恐くはないです」
 「ふん、うまく躱しおったな。それなら、靴下なし純一の話をしようか。靴下はナシでも息子より年下はアリという男でな…」
 「そんな話はもうたくさんです」
 「なんじゃ、ゴシップ・ホラーはお好みではなかったか」
 「私が言っているのは、そういうことではなくて」
 「分かっておる。一応、タイトルに合わせて暴言を吐いてみようとしただけじゃ」

 「ところで、伯爵は、どこにおいでなのでしょうか」
 「おっと、いけない。つい話に夢中になって、すっかり忘れておった。伯爵は、急用で外出しなきゃならんことになったので、くれぐれもジョナサン様によろしくと、このように仰っておられた」
 「急用で外出されたのですか。それで、伯爵がお戻りになるのは?」
 「さあ。そこまでは聞いておらんが…」

 どうもこの男爵の話は信用できないけれども、「伯爵が自由に見てもよいと仰っていた」と太鼓判を捺すので、ジョナサンは伯爵の書斎に入り、書棚に並んだ蔵書を眺めている。有り難いことに、どの本も英語で書かれていた。

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 書斎にはいってみると、うれしいことに、書棚にギッシリ並んでいる蔵書は、ことごとく英文の書物で、中央にすえてある小机の上にも、英文の古新聞や古雑誌がうずたかく積み上げてある。書棚の本は、これはまたじつに多方面で、歴史、地理、政治、経済、植物、動物、法律――およそ英国と英国人の生活・習慣に関する名著という名著は、ほとんどそこに網羅されていた。

『吸血鬼ドラキュラ』(ブラム・ストーカー 著/平井程一 訳/創元推理文庫)

 ジョナサンが伯爵の城を来訪した目的は、実はこの書斎の蔵書を読むことにあったのではなかったかと思われる。日記には、伯爵がロンドンの不動産を購入するにあたっての手続きのためだなどと繰り返し書かれているが、その記述にはどうも不自然な感じがある。引用の際にブラムが脚色したのか、それともジョナサン自身による創作だったのか、あるいは実際に“ハーカー”という変名で“弁理士”としての生活を営んでいたのかと、あれこれ妄想していると、伯爵が帰って来た。

 「いや、お待たせして申し訳ない。ちょっとコンビニまで行っておったもんでな」
 「コンビニですって?」
 驚いたジョナサンが問い返すと、伯爵は不思議そうな顔をした。
 「そうじゃよ。コンビニエンス・ストアーじゃ。昼間に眠って夜活動するわしのような一人暮らしの者は、これがなくては生きていけんよ」
 「こんなところにもコンビニがあったとは」
 「ここへ来るときに見かけなかったか? あの大きな豆の木のすぐ近くじゃよ」
 「いいえ。真っ暗で何も見えませんでした」
 「そうじゃったか。まあ、便利なもんができたもんじゃ」
 伯爵はレジ袋から弁当やら惣菜やら飲み物やらを取り出した。
 「適当に選んできたが、これで良かったかな」

 書斎の隣にある食堂に連れて行かれて、ジョナサンは一人で食事をした。伯爵は外で食べて来たと言う。食事を終えて書斎へ戻ると、伯爵は何か大きな封筒を持って来た。
 「そうそう、こんな物も届いておったが、君が注文したのか?」
 ジョナサンは首を横に振った。
 「そうか。それじゃ一体、誰の仕業じゃろうな」
 伯爵がエアパックでふくらんだ封筒をあけると、中には本が入っていた。その表紙には『ほらふき男爵の冒険』という文字が印刷されている。有り難いことに日本語訳だ。

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 封筒から取り出した『ほらふき男爵の冒険』をぱらぱらとめくっていた伯爵は、急に険しい表情になった。日本語は読めない筈だから、挿し絵を見て何か不穏なものを感じたのかも知れない。
 「これはけしからん本じゃ」
 伯爵はそう言って、その本を蝋燭の火で焙り始めた。ジョナサンは思わず伯爵の手から本をひったくった。
 「何てことをするんですか!」
 すると伯爵は、また元の穏やかな表情に戻った。
 「それでは、当家の歴史について少し語ろうか」

 「われらセクリー人には、主君のために身を打ち捨てて、獅子奮迅に戦いぬくという、雄々しい血が流れておる。これがセクリー人の誇りじゃ。(中略)そのアッチラの血が、わしのこの腕に(と伯爵は高だかと腕を上げて)流れておるのじゃ。さればさ、われら征服民族、それを誇りとしておるのに、なんの不思議があろうぞ。(中略)それほど天下に威名をとどろかしたわれらが民の一大恥辱、ワラキア人とマジャール人の旗印が三日月の旗の下におろされたのは、いつであったか? (中略)時降ってわれら一門の分かれが、ふたたび河を渡ってトルコに押し入った際、陰に陽にそれを励まし助けた者こそは、たれあろう、かく申す不肖ドラキュラではなかったか? すなわち昔ワガハイが、リトアニアのプルツォボフスキー伯が領内の豪壮な屋敷に招かれた時の事、種付け所から着いたばかりの血統書付き若駒をみるとかいって紳士諸君は出ていったのだが、ワガハイ客間に残り貴婦人方と一緒にお茶をよばれておった。すると突然、下で騒ぎが起り悲鳴がきこえる。ワガハイ急いで階段をばかけ降りる。みれば件の馬が手のつけられぬくらい暴れていて、誰一人、近づこうとも乗ってみようとも、ようせんのです。(中略)そこでワガハイ一跳びヒラリと、馬の背にまたがったときは、誰の顔にも不安と憂慮が漂ったもんだ。なにワガハイはこの不意打ちで馬の度肝を抜いた、のみならず、ワガ馬術の秘技を尽くして大将の気を完全に鎮め、ワガ意に従わせてしまったのでありますヮ。(中略)お蔭でワガハイ貴婦人方ならびに伯爵殿のおぼえいと目出たく、伯は彼一流の丁重さで、この若駒を自分からの贈物として受けてはくれまいか、これに鞍おきトルコへ出陣してはくれまいか、とワガハイに頼むのでありましたが、折りしもミュニッヒ伯爵指揮のもと、勝利と征服めざしトルコ遠征間近、ときたもんでありました。

『吸血鬼ドラキュラ』(ブラム・ストーカー 著/平井呈一 訳/創元推理文庫)
『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー 編/新井皓士 訳/岩波文庫)

 いつの間にやら、伯爵の語りが男爵の口調になっていた。ジョナサンの背筋に冷たいものが走った。さっき伯爵は一人暮らしだと言っていなかっただろうか。ということは、この城の中には今、伯爵と自分以外に誰もいないはずだ。だとすると、あの男爵は幻だったのか…。いや、今、目の前で熱弁をふるっているのは紛れもなく男爵その人だ。ということは、つまり伯爵は…。

 ここでまた「ネットで注文しなきゃ」なんて言って慌てふためくとでも思いなさったか? そんな先の読めないバカタローと一緒にされるとは心外だな。ボンジュール!

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 男爵の話は、夜明け近くまで続いた。

 ワガ軍がトルコ軍をオチャコフに追いつめた時の事であります。前衛では激しい戦闘が展開されていた、そのワガ熱血のリトアニア馬がすんでのことワガハイを窮地に陥れかけるという事態が起った。ワガハイは本隊からかなり突出した前哨にあったのだが、みると敵が濠々たる砂塵をあげつつワガ方へ押し寄せ、そのためワガハイ、敵の実数も意図も皆目つかめず弱ってしまった。(中略)そこでワガハイ、左右両翼に部下を散兵展開させ、できるだけ盛大に埃をかきたてさせた。(中略)敵は停止し戦端をひらきはしたが、たちまちワガ散兵の仰山な砂ぼこりにおびえて隊伍を崩し退却というわけだ。されば今や心勇んで追撃すべき時、われわれは敵を完全に蹴散らし、大潰走のお膳立てをした。そして背後の要塞に追い込んだばかりか、徹頭徹尾追い立て追い出してしまったわけで、まさに血気騒ぐ*われわれが期待以上、ないし期待にそむく、大成果をあげた次第であります。げにわがドラキュラ家こそは、その知恵、その度量、その剣において、ハプスブルグ家やロマノフ家のごとき、俄か大名の及びもつかぬ、炳乎たる記録を誇る貴き家柄なのじゃ。なれども、戦乱の日はもはや過ぎた。こんにちのごとき、まことに不面目なる平和の時代には、『血統』こそが何にもまして貴いのじゃ。威名世にかくれもないわが一門の歴史は、まずざっとこんなものじゃよ」


(訳注)レクラム文庫本の編者はビュルガーの誤訳を指摘している。すなわち英文の sanguine (多血質の)を sanguinary ととり違え blutgierig (血に飢えた)とした、というのである。

『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー 編/新井皓士 訳/岩波文庫)
『吸血鬼ドラキュラ』(ブラム・ストーカー 著/平井呈一 訳/創元推理文庫)

 語り終わった伯爵に、ジョナサンは三通の手紙を書かされた。それぞれ、「あと四、五日でこちらを発つ」、「明日こちらを発つ」、「すでにここを発った」という内容で、日付は六月十二日、六月十九日、六月二十九日にするようにと命じられた。
 伯爵はそれぞれの手紙を封筒に入れ、厳重に封印をしたうえで、「ジョナサン氏が、死亡、もしくは失踪以前に開封すべからず」と書き入れた。
 ジョナサンは「ああ、そういう手を使って来るんだな」と思った。

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 ジョナサンは、勝手に変なことを書き加えられた封筒を伯爵に向けて言った。
 「これは、どういう意味ですか!」
 すると伯爵は男爵に豹変して、こう答えた。
 「ほんの冗談じゃよ」
 「あなたの…。いや、伯爵の狙いは、一体何なんですか?」
 「ワガハイにはトンと見当もつかんな」
 「嘘だ。この封筒を見て、あんたはすぐに冗談だと言ったでしょう」
 「こんなの、誰だって一目で冗談だと分かるじゃろうが」
 「たしかに…。しかし、質の悪い冗談ですよ、これは」
 「そりゃまあ、そうじゃな…」
 男爵は伯爵に豹変し、ジョナサンの手から素早く封筒を奪い取った。そして、ゆっくりと封を切った。中から取り出した便箋を開くと、ジョナサンの顔に突き付けた。
 「それでは、これは質の良い冗談だと言うおつもりですかな」
 その便箋には、細かい速記文字がぎっしりと書き込まれていた。
 「こういう勝手なことをされては、困りますな」
 伯爵の目は意地悪く光っている。どうして便箋をすり替えたのに気付かれたのだろう。あの時、伯爵は確かに隣室に行っていた。ドアは開いていたが、こちらの部屋を覗き見たりすれば気付かなかった筈はない。ジョナサンは混乱した。
 伯爵は、便箋の速記文字を読み始めた。
 「五月八日のところに、こんなことが書いてありますな。『ひげ剃り鏡のなかに、伯爵の姿が映っていなかった』と。あの時は、わしも驚いて、うっかり鏡を割ってしもうたが、こんなことまで手紙に書かんでも良かろうに…」
 「そうか、鏡だ。鏡越しに見ていたんだな!」
 ジョナサンは、つい叫んでしまった。
 「そうじゃった。コンビニで代わりのを買うてきたんじゃ」
 伯爵は、隣室へ駆け込んで、鏡を持って来た。
 「安物で悪いが、これで我慢してくださらんか」
 「ああ…、それはわざわざどうも」
 そうじゃないだろ! おい、ジョナサン、しっかりしろっ!

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 ジョナサンは鏡をじっと見ている。伯爵の声がどこか遠くから聞こえている。
 「君は、何か記憶違いをしておるようじゃな」
 鏡にはジョナサンの顔が映っている。伯爵の姿は見えない。
 「この手紙を書いてもらったとき、わしはずっと君の目の前におったはずじゃ」
 ジョナサンは鏡を見ながら、ひげを剃っている。背後には伯爵の気配がある。
 「わしが席を外したのは、わしが書きかけていた手紙を置いて隣の部屋へ行ったときではなかったかな」
 ジョナサンは、はっとして背後を振り返った。伯爵の姿は見えない。
 「しかも、扉はきちんと閉めておいたはずじゃ」
 あたりを捜し回ったが、どこにも伯爵が隠れられそうなところはない。
 「ここじゃよ」
 鏡の中から伯爵の声が聞こえた。ジョナサンは鏡の前に戻った。
 「君はわしの目の前でこの速記文字の手紙を書いたんじゃ」
 鏡に映っているのは、ジョナサンの服を着た伯爵だった。
 「わしのような年寄りには読めんと思うておったのか」
 鏡の中の伯爵が、その便箋を向こう側から押しつけている。
 「これは書き直してもらわにゃならん」
 鏡の中から便箋が突き出して来た。そして便箋は鏡の中の伯爵の手から離れ、こちら側に落ちた。
 「これから私が言う通りに書くのじゃぞ」
 拾い上げた便箋は白紙に戻っている。ジョナサンは書斎の椅子に座り、手にはペンを握っていた。

 ジョナサンの手は、伯爵の声に反応して勝手に動き、便箋を埋めて行った。しかし、右から左へと流れる文字は、ジョナサンには読めなかった。

 便箋を鏡の中へ差し入れると、鏡の向こうの伯爵はにんまりと笑った。
 「そうじゃ、それでよいのじゃよ。さて、さっそく最初の手紙を送るとするか…」
 伯爵は鏡の向こうの書斎の中へと入って行った。

 鏡のこちら側にいるジョナサンも、書斎の中へと入って行った。ジョナサンの体は、ずっと伯爵と同じようにしか動かなかったが、書斎の扉を閉めたとたん、伯爵の呪縛が解けた。ジョナサンが、閉めたばかりの扉を開けようとすると、鋭い叫び声がした。
 「やめろ!」
 何か、もぞもぞと動くものが、ポケットの中にあった。

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 扉の把手を回そうとして突然の叫び声で固まったジョナスは、自分が伯爵の服を着ていることに気付いた。

「冬の夜の真白きとき
 われはこの歌を歌いてきみを楽します

 (中略)

 そしてなお扉の閉じたるを見て
 われは把手(とって)を回し、だが――」

 長い間があった。

『鏡の国のアリス』(ルイス・キャロル 著/柳瀬尚紀 訳/ちくま文庫)

 伯爵の服のポケットから顔を出したゆで卵を、ジョナスはじっと見ていた。
 「こんちは」
 そう言ったのがハンプティだったかダンプティだったか、ジョナスには区別できない。
 「さよなら」
 ゆで卵の姿が薄れはじめた。こうなりゃ、当てずっぽうだ。
 「ちょっと待ってくれ、ハンプティ」
 急に輪郭のはっきりしてきたゆで卵は言った。
 「…てことは、あっち側にいるのが、ダンプティだな」

 どこか上の空で話すハンプティを机の上に置いて、椅子に座ったジョナスが問いかけている。
 「すると、伯爵の服…、いや、僕の服にはダンプティが隠れているんだね?」
 「そうそう…。おっ、爺さん、コンビニに入ったぞ」
 「君にはそれが分かるのか」
 「分かるって、何が?」
 「鏡の中の伯爵が見えるのか?」
 「鏡の中?」
 「そうだよ、伯爵は鏡の中で何をやってる?」
 「何を言ってるんだ? ダンプティがいるのは鏡の外だよ」

 「ということは、僕は鏡の中に閉じ込められたってことか…」
 ジョナスは頭を抱えた。
 「どうやったら外に出られるんだ?」
 「さあねえ…」
 ハンプティは、相変わらず上の空だ。
 「おっ、また取りそこなったぞ! この爺さん、面白いな」

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 ジョナサンの服を着た伯爵は城を出て、ポストのあるコンビニに向かっていた。しかし、こんな夜更けに通行人はいない。目撃者になりそうなのはコンビニの客と店員ぐらいだ。
 伯爵が深夜のコンビニに入ると、勘定台には編み物をしている年老いた羊がいた。伯爵は切手を買うつもりだったが、その前に陳列棚を一巡せずにはいられなかった。

 店はありとあらゆる奇妙な品々でいっぱいだった――なかでもとびきり変わっているのは、なにが載(の)っているのかちゃんと見定めようとして棚をじっと見るたびに、とくにその棚だけがかならず空っぽになり、しかもそのまわりの棚には載りきれないほど品物が載っているということである。

『鏡の国のアリス』(ルイス・キャロル 著/柳瀬尚紀 訳/ちくま文庫)

 伯爵は、逃げ回る商品を捕まえようと夢中になっている。ジョナサンの上着の内ポケットには手紙のほかにも何かが入っているのだが、伯爵はそのことにまだ気付いていない。

 伯爵の書斎にいるジョナサンは、コンビニにいる伯爵の様子をハンプティ・ダンプティの目と口を通じて知らされている。
 ジョナサンは目の前にいるハンプティにこう言った。
 「ダンプティ、君はどこのポケットに入ってるんだ?」
 すると、ハンプティがこう答えた。
 「何を言ってるんだ? 僕はハンプティだよ」
 「いや、そうじゃなくて、伯爵の服…じゃなくて、ああ、ややこしいな、もう…」
 ジョナサンは、こめかみを両手の先で押さえた。
 「伯爵が着ている僕の服のポケットに入っているダンプティに訊いてるんだ」
 すると、ハンプティが面倒くさそうに答えた。
 「だから、そのハンプティが、『何を言ってるんだ? 僕はハンプティだよ』と言ってるんだよ」
 「じゃ、君は…。今ここにいる君が、ダンプティなのか?」
 「つまり、そういうことになるのかな」
 「ちょっと待ってくれよ…」
 立ち上がると目眩いがしそうだったので、ジョナサンは目を閉じて座ったまま頭を整理した。

 そのころ伯爵は、やっとのことで捕えた商品を持って勘定台に向かっていた。年老いた羊は、何か小さな紙切れを口に入れ、もぐもぐと食べている。それを見て手紙のことを思い出した伯爵は、切手を出してくれと頼んだ。
 「もうないよ」
 「今あなたが食べているその紙切れは、切手ではないのかね?」
 「そうさ。売れ残りをこうやって処分してるんだよ」
 「一枚だけでいいんじゃが…」
 「期限切れの食べ物を、お客に売ったりすると上がうるさいからねえ」
 「わしゃ、切手を食べたりはせんぞ」
 「お客はみんなそういうけど、きっと舐めるだろうさ」
 「それでは、仕方があるまいな…」
 切手をあきらめた伯爵は、商品の代金を支払って、コンビニを出た。

 「伯爵がコンビニを出たぞ」「もうすぐ城に帰って来るぞ」
 ハンプティ・ダンプティがそう言った。ジョナサンは目を開いて、首からぶら下げていたものを取り出した。それは、宿屋の女将にもらった十字架だった。

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 「伯爵は鏡の中だな!」
 ジョナサンは十字架を手にして、書斎から駆け出した。開けっ放しの扉から、ダンプティが声をかける。
 「そんなに慌てなくても、まだ大丈夫だよ」

 夜が明け始めたのをみて、伯爵は足を早めた。ハンプティは、伯爵が着たジョナサンの上着の内ポケットの中にいる。ポケットから顔だけ出して外の様子を伺っているが、伯爵が動くたびに顔に当たるものがあって、どうも邪魔くさい。

 ジョナサンが鏡面すれすれに十字架をかざして伯爵が帰って来るのを待っていると、ダンプティがのんびりとやって来た。
 「あの爺さんは、まだ城の外だよ」
 「用心するに越したことはない。どんな手を使ってくるか分からんからな」

 年老いた羊が、コンビニの外に出て来た。箒とちりとりを持っている。あたりは仄明るくなっているが、さっきの怪しい風体の客の姿はもう見えない。

 鏡の中に伯爵の姿が現われた。
 「こんな物があったぞ…」
 伯爵はそう言って、コンビニで買ってきたひげ剃りを鏡に近づけた。しかし、ジョナサンが持っている物を見て、急に顔を曇らせた。
 「何じゃ、それは!」
 「御覧の通り、十字架ですよ」
 「そんなことは分かっておる。なぜ、そんな仕打ちをするのじゃ?」
 「わざわざ手紙を書かせてくれたお礼ですよ」
 「分かった、わしが悪かった」
 ジョナサンは、予想通りの伯爵の反応に満足した。
 「あの手紙なら返すから…」
 伯爵は、内ポケットに手を入れた。
 「おや? 確かにここに入れた筈なんじゃがな…」
 しかし、伯爵の手がつかんだものは、手紙ではなかった。
 「あの邪魔っけな紙なら、さっき追い出してやったよ」
 「何じゃと!」
 ハンプティは、伯爵の手からつるりと逃げて、鏡の中から飛び出して来た。
 「おい、こら、待て!」

 ジョナサンは十字架の鎖を鏡に巻きつけて固定した。
 「おい、何てことをするんだ!」
 「鏡なんか使って小細工をするからこういうことになるんだ」
 「ほら、このひげ剃りを受け取ってくれ。これなら怪我をする心配もないぞ」
 ジョナサンは鏡の中で必死に叫び続けている伯爵を無視して部屋から出て行った。ハンプティ・ダンプティは、そのまましばらく鏡を見ていたが、伯爵の姿が見えなくなると、ジョナサンのいる書斎へ行った。

 置き去りにされた鏡の中で、ひげ剃りの形がゆっくりと変化していた。手足と尻尾が生え、トカゲの姿になったひげ剃りは、鏡の中から抜け出して来た。テーブルから壁へと伝って這い回っているうちに、壁に掛かった額縁にたどり着いた。やがてトカゲの姿は、そこに描かれている奇妙な絵の中へと溶け込んでいった。

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 さっさと帰ればいいのに、ジョナサンはまだ伯爵の城にいる。伯爵を鏡に閉じ込めたことで油断したのだろう。一度だけ、ホーキンズのことを思い出して手紙を送ったようだが、伯爵に無理やり書かされた二番目の手紙(「明日出発する」という内容で、日付は六月十九日)を、そのまま別の封筒に入れただけというなおざりなもので、その後は手紙のことなど、すっかり忘れてしまっている。

 ジョナサンの“妻”(実はまだ婚約者)であるミナの日記によると、その手紙を転送してもらって読んだのは、七月二十六日。内容は「今帰国の途にたつ」というもので、ミナにとっては、文面の微妙な食い違いは問題ではなく(そもそもそれを知る由もない)、ジョナサンらしくないそっけない書きぶりだったことの方が問題だったようだ。

 もしかすると、今ごろジョナサンは帰国の途中で船に乗り、いつものように嵐に見舞われて変てこな島に漂着しているのかもしれず、あるいは夜な夜な現われる三人の若い女たちにたぶらかされ、いまだに城の中にいるのかもしれない。もちろん、ミナはそこまで具体的なことまで書いていないが、漠とした不安をいだいていることは日記の文面から読みとれる。

 城に残ったジョナサンは伯爵の書斎にこもって膨大な蔵書を読み耽っていたと考えるのが妥当な線だろう。当然、ジョナサンの日記には、そのことが詳しく記されている筈だが、ブラムの小説とは無関係な記述であるため、ばっさりカットされている。

 しかし、ジョナサンは、ミナ宛ての手紙を一通も出さなかったようだ。いくら何でも、婚約者への手紙を忘れてしまうというのは不自然すぎるだろう。後に、ミナと再会した時に、ジョナサンが記憶喪失になっていることも不自然だ。記憶喪失のふりをして、何かを隠していたと考えた方が筋が通る。ジョナサンは、この間、一体何をやっていたのだろうか。

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 ジョナサンは、伯爵の書斎に籠って、英語で書かれた蔵書を読んでいる。ハンプティとダンプティは、ジョナサンに何を話しかけても生返事しかしないので、退屈で仕方がない。そこで、城内のあちこちを探検しはじめた。

 「伯爵の鍵を発見したぞ」
 「この部屋には大きな箱の中できれいな女の人が眠っていたぞ」
 「この部屋に金貨がどっさりあったぞ」
 「隠し扉があったぞ」
 「地下トンネルの先の部屋に大きな箱が50個あったぞ」
 しかし、そこで行き詰まってしまった。二人は書斎に戻ってきて、攻略本はないかと書棚をあさり始めた。書棚の本を次々に床に放り投げて、中身を確かめていく。
 「これも違うし」「これも違うか」「これも違うし」「これも違うな」「これも違うぞ」「これも違うだ」「これも違うよ」「これも違うね」
 そして、案外早く目的の本を発見した。
 「あったぞ」「おれが読む」「おれが見つけたんだ」「最初に触ったのはおれの方だ」
 二人はしばらく争っていたが、書棚に昇っていたハンプティが別の本を見つけたため、攻略本はダンプティが読むことになった。

 攻略本から顔を上げて、ダンプティがジョナサンに尋ねた。
 「ねえ、あんたの名前はジョナサンっていうんだろ?」
 「ああ、そうだよ」
 「ミナっていう人が、ジョナサンから手紙が来ないって、心配してるよ」
 「ああ、そうか…」
 生返事をした後で、ジョナサンはやっと本から顔を上げた。

 「何だ、この本は!」
 ジョナサンは、床の上で慌ただしく本のページをめくっている。
 「ジョナサン・ハーカーと、ミナ・マリー? そんな人、全然知らないよ」
 そして、大声で笑い始めた。
 「僕はジョナサン・スウィフトだよ」
 すると、別の本を読んでいたハンプティがびっくりして顔を上げた。
 「ジョナサン・スウィフトだって? この本を書いた人だったのか」
 もう、何でもありだな、この書斎は。

 「どうやら、伯爵は人違いをしていたようだね」
 「ふーん」「で、これからどうするの?」
 「そうだな…」
 ジョナサンはテーブルの上に積み上げられている金貨を見た。
 「この金貨はどうしたんだ?」
 「この部屋で見つけたんだ」「いや、最初に見つけたのはおれだよ」「でも、おれがその部屋の鍵を見つけたんだろ」「いや、おれがマッピングしてたから、その鍵が見つかったんだ」
 「まあまあ、落ち着いて」
 ジョナサンはハンプティが振り回している手製の地図を取り上げた。
 「ここに書き込んである、“50個の大きな箱”っていうのは…」
 攻略本のページを繰って、日付を見た。
 「六月三十日の朝、ツガニー人とスロヴァキア人が引き取りに来ることになっている」
 そして、ハンプティ・タンプティに尋ねた。
 「今日は何月何日だ?」
 ハンプティとダンプティは顔を見合わせた。そして声をそろえて、こう叫んだ。
 「今日は、おれたちの非誕生日だ!」


〔付記〕書いているうちに内容が変わってしまったので、「二人のジョナサン」は次回分のタイトルとして、今回分は「伯爵の蔵書」に改題しました。ややこしくてすみません。

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