刑事は登場しても、まだ犯人が登場していない。それでも読者は犯人や動機や手口についてよく知っている。それがこの転倒ミステリの凄いところである。
玄関先のうんこで滑って転倒死したかに見える猿の死体が持ち上げられ、運び出されようとしている。犬刑事は、猿の尻をくんくん嗅いでつぶやいた。
「やっぱりね…」
猿の尻には玄関先に落ちているのと同じ匂いのものがべったりと付着している。これは、滑って仰向けに転倒したことの裏付けになるだろう。犬刑事は、猿の尻の写真をもう一枚撮るように言って、現場から立ち去った。
犬刑事が目撃者に質問している。
「パーンという乾いた音がして、その後でドスンと鈍い音がしたんですね?」
「それで、外を見たら、臼が猿に馬乗りになってました」
「臼が馬乗り…」と、犬刑事はメモしている。
「猿は、馬みたいに四つん這い?」
「いや、仰向けで、臼の顔を引っ掻いてましたよ」
「二人は何か言ってましたか?」
「猿の方は『やめろ』とか『離せ』とか叫んでましたが、臼は何も言わずに凄んでました」
「凄んでた?」
「はい。一瞬、目が合ったけど、恐ろしい顔でした」
「なるほどね」
「それですぐに、猿を引きずって家の中に入って行きました」
「猿はぐったりしてた?」
「羽交い締めにされて、じたばたもがいてましたよ」
「その後、玄関は開けたまま?」
「ぴしゃりと閉められました」
「誰が閉めたか見ましたか?」
「もちろん。臼ですよ」
「その一部始終を、二階の部屋から見てたんですね」
「はい」
「どんな風に見えるか確認したいんだけど、いいですか?」
「どうぞ…。でもその前に、その足、きれいに拭いてくださいよ」
犬刑事は目撃者の二階の部屋から、平屋建ての猿の家を見下ろした。屋根の上に足跡があった。ちょうど玄関の真上だ。
「おーい、誰かいるかい?」
猿の家から部下が出てきた。
「何ですか、警部?」
「屋根の上に足跡があるから調べといてよ!」
部下は屋根を見上げた。
「あー、それから、君…」
「何ですか?」
「そのうんこ、踏まないようにね!」
部下は飛びすさった。
酒場で臼が飲んでいると、犬刑事がやってきた。
「あんた、デカだろ」
「どうして分かったの?」
「見りゃ分かるって。言っとくけど、俺はやってないぞ」
「分かってるよ」
「あんた、俺を疑ってないのか?」
「それくらい、顔を見りゃ分かるよ」
「冗談はよせよ」
臼は笑ったが、犬刑事は真顔でこう言った。
「引っかき傷がないからね」
犬刑事はポケットから袋入りの菓子を取り出した。
「これ、旨いよね」
それは、“猿蟹印の柿の種”だった。

コメントする