犬刑事が酒場に入ると、臼が一人で飲んでいた。ここで以前と同じシーンを再現するのも芸がない。しかし、同じ場所・同じ時間に別の出来事が起きるのもミステリの世界では禁じられている筈だ。そこで、犬刑事は臼の話を聞き流しながら、これまでの話を頭の中で整理することにした。
死亡推定時刻と死因については検死報告書待ちだ。玄関先に落ちていた糞と猿の体に付着していた糞の成分についても鑑識が調べている。玄関の上の屋根に残っていた足跡は臼の足と照合しなくてはならないが、これは後で臼に何か適当なものを踏んでもらえばいい。しかし、乳牛の糞をどうやって手に入れるかが問題だな。
目撃者と蟹の話には疑わしい点が多いけれど、今のところ物証がない。もしも目撃者が嘘を吐いているとすると、臼の容疑は一応晴れる。しかし他方では、猿の引っ掻き傷がないことを理由に臼を容疑者から外すことはできなくなる。
あと、栗と蜂の件もあったっけ…。しまった! 現場で拾った栗をポケットに入れたままだ。署に帰ったら忘れずに鑑識に渡さなくっちゃ…。
少し頭がすっきりしたけれども、まだ何かもやもやとしている。まあ、最初は大体こんな感じだし、何か進展したときにまた考えりゃいいか。
あれこれと考えごとをしているうちに、臼の話が終わった。犬刑事は礼を言って酒場を出ようとした。背後から「必ず犯人を見つけ出してくれよ」という臼の言葉が聞こえた。
次の瞬間、犬刑事はミステリの掟から解放されて、くるりと振り返った。
「そうそう、ここに来る途中、牛さんから聞いたんですけど…」
すると、臼は立ち上がった。
「そのことは、歩きながら話そう」
犬刑事は、酒場から出てきた臼の足元を見て言った。
「そのブーツ、変わってますね」
「これは地下足袋という日本の履物だ」
「ああ、ニンジャが履いてるやつですね」
「ま、そんなもんだ」
「ニンジャだったら、梯子がなくても屋根に飛び乗ったりできるんでしょうね」
「何が言いたいんだ?」
「いえ、猿さんの家の屋根に足跡があったのを、ふっと思い出しんで」
「つまり、俺が屋根にいたと言いたいのか」
「その反対です。あの足跡と一致しなければ、あなたの容疑は晴れるんですよ」
犬刑事は、さっき考えていたことを口にするチャンスだと思った。
「そのブーツの型をとらせてもらえると、ありがたいんですが…」
「そう言われると、断るわけにはいかんな」
臼は憮然としている。
「それに、あなたはニンジャではない。梯子か何かがなければ屋根には上れません」
「確かにそうだな」
「あなたが現場に行ったとき、梯子か何かありましたか?」
臼は立ち止まって、何かふっきれたように言った。
「なかったよ」
「玄関は閉まってましたか」
「開けっ放しだったな。猿が倒れているのが見えたんで急いで駆け込んだんだ」
「そのときは、もう…?」
「息もしてなかったし、脈もなかった…」
臼は、空を見上げながら苦しそうに言葉を絞り出した。
「必死で、心臓マッサージをしたんだ…。だけど、駄目だった」
「そうでしたか」
「外へ出ようとしたら、向かいの家の男と目が合った」
「二階の窓から見てた人ですね」
「それで怖くなって、玄関を閉めて裏口から逃げてしまった」
「よく話してくれました」
「あんたは信じてくれるよな」
「もちろんです。あとで正式な供述をしてくれますね?」
「ああ。これでやっと、猿のやつに顔を会わせることができる」
二人は猿の家の前までやって来た。立ち入り禁止のテープは撤去されていて、警官たちの姿ももうない。どうやら事故死として処理されているようだ。
「それじゃ、私はこれから署に戻ります」
臼は犬刑事に向かって御辞儀をして、猿の家に入って行った。
署に戻った犬刑事は、ポケットから栗を取り出して鑑識係のところに持って行った。
「これで、よし」
しかし、牛糞固形燃料の件を聞きそびれたことには、全く気付いていないようだった。

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