ワープロ論争への提言
今年に入ってから、文芸誌の『文學界』を中心にワープロに関する議論が起きている。率直に言って、いまだにこんな議論をしているのかという気もしたが、よくよく考えてみると、最も大切なところを置き去りにしたままワープロが進歩してきた結果ではないかとも思える面もある。
今回の議論が以前と大きく異なっているのは、文字コードの問題にはほとんど触れていないことだ。このところ、13万字を搭載したOSが登場したり、JISの文字コードが拡張されたりという目立った動きがあったため、十数年前から改善されていない本質的な問題点に光が当たるようになったのだろう。
そこで、ワープロ(特に日本語入力方式)の問題点について、あらためて考えてみる。(なお、以下の文章では、「ワープロ専用機」と「パソコン上のワープロソフト」の両方を「ワープロ」と呼ぶことにする。)
ワープロに関する記事 bookmark
まず、最近目にしたワープロに関する記事を見てみよう。
石川九楊氏の意見 bookmark
議論の発端は、書家の石川九楊氏が『文學界』(平成十二年二月号)に書いた「文学は書字の運動である――文章作成機(ワープロ)作文は何をもたらすか」という文章だった。
主な論点を拾い出すと、以下のようになる。
- 書字を打字に変えた和文タイプライターの延長線上に和文文章作成機が企画されるべきであったが、現実には、ローマ字や仮名で入力して漢字に転換する方式が開発された
- 事務用に限定的に用いている分にはよかったが、表現や教育や家庭に侵入することには問題がある
- 仮名漢字変換の同音語選択操作は思考の邪魔になる
- 「身体が覚える」とか「手が覚える」と言うのを「無自覚の意識」と呼ぶことにする
- 文章作成機(ワープロ)を使うと、無自覚の意識ではローマ字や仮名で思考することになり、その結果、漢字を忘れる
- タイピングの手の運動は思考の錯乱を生み出す
- 無自覚の視覚は文字盤、自覚的な視覚は画面を追う
- 意識と無意識の思考が分裂する
- 文章作成機(ワープロ)においては、申し訳程度の反芻や推敲しか生じない
井上ひさし氏の意見 bookmark
『週刊朝日』(2000年2/18号)に、「ワープロを捨てた作家たち」という題の記事が載った。中でも、作家の井上ひさし氏のコメントが大きく取り上げられている。
井上氏の意見は、以下の通り。
- 本来漢字仮名交じり文の日本語を、平仮名文やローマ字文で書くことに違和感がある
- 意図した漢字に変換されず集中力がそがれる
- 送り仮名などが勝手に決められてしまう
- 疲れが文字に出ないため、疲れに気づかず『疲れた文章』を書いてしまう
- 簡単に修正できることがかえってマイナスにもなる
- 機械がすぐに陳腐化するので落ち着かない
- 日本語の文章をつくるという一点に特化していない
- 先達たちが苦心を重ねて改良してきた筆記具、筆記具によってできあがった自分の筆跡と別れるのがつらい
- 手書きのように原稿用紙を並べて一度に読むことができない
- 商業文や事務文には最適である
外岡秀俊氏の意見 bookmark
今度は、「朝日新聞」(平成12年2月27日付朝刊)の「主張・解説」面に「ワープロ廃止論の重み」という記事が出た。筆者は編集委員の外岡秀俊氏。『文學会』の石川九楊氏の批判文を引用しつつ、電子ネットワーク社会にまで話を広げている。
外岡氏の意見(引用部分以外)は以下の通り。
- ネットワークで流れる膨大な電子情報は、ホタルイカの光のように「個」を消し去るために発信されているのではないか
- インターネッと社会は個の発信力を飛躍的に増やしたが、本当に発信すべき「個」はあるのだろうか
- 自分は孤立していないと安心したいばかりに、発信を続けているだけではないか
Webに掲載された意見 bookmark
「ワープロ廃止論」などをキーワードにして検索エンジンで捜したところ、以下のようなWebページが見つかった。
- http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/9811/Feb2000.html
random talk Feb. 2000
2月28日: 本格派のワープロ廃止論- 「電子メールやワープロで書いたものには心がこもってない」という意見には反対
- (仮名漢字変換の)2段階方式は、思考をかき乱して文章をだめにするかも知れない
- 相当辞書を鍛えておかないと、だれしも誤変換に苛立つことだってあるはず
- だからといって今からワープロを捨てられるかというと、絶対無理
- ワープロ廃止論を叫ぶよりは、変換作業を限りなくゼロに減らしてくれた方がいい
- http://plaza7.mbn.or.jp/~KOTAROU/index.html
小太郎の「今日のコラム」
2000年2月27日「ワープロ廃止論について」- 文章の大きな枠組みを考えるには、紙と鉛筆の方が向いている
- 大枠の中の文章を書くにはパソコンの方が有用
- 漢字変換などで思考が中断されない手書きの方がよい可能性がある
- 全体的な推敲などは、パソコンの方が圧倒的に楽にできる
- 手書きとは違った意味での(文章の)生命力は、ワープロからは生まれないのだろうか
- http://www.takagi-ryo.ac/press/
ニュースにびっくり
2000. 2. 27 朝日新聞……「ワープロ廃止論」(2000. 2. 27記)- これ(石川氏の意見)は単なるアナクロニズムではない
- 誤変換が間に入ることによって、 思考が中断してしまう
- 英語などの場合は「変換」はないから、思考を乱されることはない
- 文章をワープロで打つようになったあとでは詩が書けなくなった
- ワープロは「言葉」を「労働」に搾取させる仕組みかも知れない
- 手書きでも 「漢字を忘れたときどうするか」 というと人によって様々だ
- ワープロの思考パターンへの影響も人それぞれだろう
- ワープロとモノの書き手の思考方法との関係も順次変わっていくはず
アンケート結果 bookmark
その後、『文學界』(平成十二年四月号)に「ワープロ・パソコンVS.原稿用紙」と題したアンケート結果が掲載された。質問事項は以下の6項目にわたり、140名の文筆関係者の回答が載っている。
(1) 執筆は手書きですか、ワープロ、パソコンですか。
(2) (手書きの方に)原稿用紙、筆記具などは? またワープロ、パソコンでの原稿執筆についてのご意見がありましたら、お書き下さい。
(3) (ワープロ、パソコンの方に)いつ頃から使っていますか。現在ご使用の機種は?
(4) (ワープロ、パソコンの方に)手書きとの違いはありますか。たとえば、推敲、構成などのプロセスに何らかの変化は生じましたでしょうか。
(5) 雑誌、本という紙に印刷される形だけでなく、メディアの世界では様々な変革がみられます。これからの十年二十年で、執筆、出版などの形はどう変化するとお考えですか。
(6) 書家の石川九楊氏が小誌2月号に「文学は書字の運動である」と題して、ワープロ、パソコンでの執筆を批判しています。感想、批判等があればお書き下さい。
質問(4)への回答を中心にして、以下、ワープロ・パソコンに関する意見を可能な限り抜粋してみる。(掲載順・敬称略)
- 肯定的な意見
- 推敲を効率良く、納得のゆくまで出来る点が長所(平野啓一郎)
- 翻訳をやれば、パソコンの有難味がわかる(養老孟司)
- 思ったところから書け、構成しなおすのも簡単。メールでやりとりできるので、編集部に送る時間が短時間ですむ(奥野修司)
- メモ的に使え、疲れていても字の乱れを気にせずにすむ(小谷野敦)
- 文を加えたり削ったりすることが多いので便利。書く速度も早くなった(田中貴子)
- 推敲、編集は大変楽になった(高辻知義)
- 推敲のプロセスが簡便になった(川村湊)
- 前にかえって直した結果、自分でも判読できなってやめてしまうのが常だったが、ワープロのおかげで長い文章が書けるようになった(北村薫)
- 原稿を手書きしたことがないのでわからないけれども、手書きでは絶対原稿が出来上がらないのではないかと思う(瀧澤美恵子)
- 推敲や編集が簡単にできるようになり、書くことが楽になった(柏木博)
- 行分けの詩を書く場合は、行の切り方を見極めるのに「便利」(平出隆)
- スピードは手書きが2時間半までワープロより早い。以降はワープロの方が早く長時間労働にむいている(井田真木子)
- 手書きに比べ、文章構成に自由度がある。推敲による修正もしやすい(池内了)
- 推敲、構成がしやすくなった(千石英世)
- 一度に400字2枚分見ることができるので直しやすい(吉田知子)
- 横書きの入力のほうが、外国へ一人旅をしているような自由さと緊張感があり、文章が締まる(荒川洋治)
- 推敲するときはワープロが役立つ。随筆などはいきなりワープロの方が言葉が流れ出るような気がする(高橋順子)
- 刷り出して初校の状態で確めるので間違いを減らす効果がある(猪瀬直樹)
- 本が出来上がったときの文字と空間のバランスがわかるので便利だ(高山文彦)
- ワープロが進歩して、楽らくと口述したものを写しとってくれると有り難い(岡松和夫)
- 削ったり、加えたりが自由気儘。コラムには最適(半藤一利)
- パソコンで清書すると、構成刷りとおなじ感覚で眺めることができる(高橋昌男)
- 肩こりが軽くなった(佐藤洋二郎)
- 文章を内容的に詳しく展開できる利点がある(岸田秀)
- 長篇にはワープロの検索機能が便利(加賀乙彦)
- 推敲、構成はダイナミックに行える。前に書いた文章の参照が容易にできる。引用がスキャナーで取ってそのまま使える(鈴木志郎康)
- 編集者が喜んだ。追加・変更が多い本では目覚ましい効果がある。短いエッセーや詩の場合、出来上がりの姿を見ながら推敲できる(篠沢秀夫)
- 現代は好むと好まざるとに関わらず、情報的な文章あるいは文章の情報的要素を重視しなければならず、そのためにはパソコン執筆は必要不可欠(紀田順一郎)
- ワープロに替えた私にとって原稿用紙は茫漠とした太平洋だ。航海するには海図として読めるパソコンが一番のようだ(村田喜代子)
- 手書きよりもスピードが三倍くらい早くなった(入江隆則)
- 本来悪筆なので相手のために(特に編集者)役に立っていると思う(阿部謹也)
- 推敲、構成などは楽になった(三浦朱門)
- ともかく速く書ける。推敲が自在(林望)
- 無論変化はあるが、それを意識して努力することも必要では(佐伯一麦)
- 字を書くと手が震えたが、その心配は無くなった。書いたものの整理が容易。推敲が楽。英文の場合タイプライターより便利。表現の不足が容易に把握できる。字数を知るのに便利(三浦清宏)
- ワープロは視覚を併用した新しい手と指による触覚的行為である(樋口覚)
- スピードが早くなる。構想の全体が設計できる。検索機能が生かせる。短所はまったくない(野口武彦)
- 推敲(構成の変更を含め)が大変ラクである。清書の必要がない(松本徹)
- ワープロは私にとって、筆記具であると同時に思考の際の補助用具になっている(柴田翔)
- 身体的に楽なこと。常に「奇麗な状態」で原稿が書けるなど、気分がいい。仕事上の連絡や手紙に、ただちに返信できる。文体のリズムに合わせて改行位置などの調子が見られる。必要な資料を画面横に呼び出せる。(安原顯)
- 不揃いで、汚い、自分の字を見なくてすむ。自分の原稿の保存、整理ができるようになった。展開、転進、飛翔、転落を楽しむ度合いが増えたような気がしている(佐佐木幸綱)
- 手書きのころは、原稿用紙が汚くなって書き直すことになり、うんざりだった。「挿入」はそんな悩みを解決してくれた(青山南)
- スピードが早いこと。挿入・削除などが簡単で原稿が常にきれいなこと(椎名誠)
- 清書がきれいに仕上がり、ゲラ校正の手間が省ける(大城立裕)
- 頭さえついてこられれば書き続けることができる(三木卓)
- 客観的になれるので推敲がしやすくなった。肩凝りや腕の痛みが軽減した(又吉栄喜)
- 慣れてしまうと、ワープロのキーを打つ左右の指の動きと脳味噌の働きが連動するようになり、手書きの時と同じようにスムーズに文章が頭から出てくるようになった(佐伯順子)
- ゴミが出ない・推敲に便利・送稿が楽で速い・保存に場所を取らない(若合春侑)
- 「考えるために書く機械」として自分なりに工夫すると可能性は広がる。「ワープロで書くことをやめた方々」の話を読んで思ったのは、コンピュータで書くことの修行がみんな足りないんじゃないかということだった(宮沢章夫)
- 自堕落な情緒を切断して論理的な構築性を獲得するのに有効(井口時男)
- 推敲が楽になった。言葉のリズムとスピードに敏感になった。手書きの頃、文章は字面だった。今は音楽だと思っている(佐藤亜紀)
- 訳し進めてから、前に戻って簡単に検索して検証できるパソコンなしには、現在の作業の効率や精度は望めない(池田香代子)
- 用語・人物名の統一作業は楽。心ゆくまで試行錯誤することができる。ペーパーレスで作業ができる(松村栄子)
- 清書の必要がない。作業時間が大幅に短縮された(三田誠広)
- 長所は、編集作業が効率よくできること、コピーが簡単に作れること、電子メールでの送稿が可能になることなど(川西蘭)
- 翻訳、字数指定の雑文書き、ペンだこ防止、事務書類の作成に効能あり(堀江敏幸)
- 途中からでも書き始められる 部分的に差し替えるのが簡単 行数制限がある場合、調整しやすい 筆跡などから性格、運勢などを知られないですむ 漢字を知らなくても漢字で書ける ゲームなどへの切り替えが簡単(土屋賢二)
- 一回きりの運動の痕跡が字に現れないので、書いている内容に意識を集中しやすい(堀茂樹)
- 良くも悪くもゲーム感覚がある。書きだしは楽になったが書くこと自体が楽になったわけではない。ワープロ画面に向かっていて、自分の文章をもうひとりの自分が編集している気分になることがある。やがて作家は、ひとりずつが小さな出版社となるだろう(鈴木一誌)
- 推敲の回数が倍増した。手書きの頃は、毎日延べ5枚が限界だったが、パソコンでは10枚から15枚も毎日打ち続けられる(藤井省三)
- 推敲をするようになった。簡単だからというだけでなく、手書きの文字に比べて距離があるからだろう。文章を「書く」というより「作る」のに近く、全体の構成を決めてから細部を書いていくことが多くなった(永江朗)
- とりわけ翻訳に際しては、刊行時のレイアウトに合わせて、文字遣いも含めて文章を検討できるという点で、パソコンの出現は作業に質的な変化をももたらした(和田忠彦)
- 推敲・再構成を繰り返すので、ワープロを重宝している(山崎行太郎)
- 否定的な意見
- 気をつけないと書きすぎて冗長になることは確かにある(宮部みゆき)
- やたらと推敲に時間がかかる(橋本治)
- 歴史用語に対する反応が鈍く、ルビを振るのにも手間がかかる(中村彰彦)
- 出ない漢字があるのと、傍点が打てないのは困る(小谷野敦)
- 漢文を書いたりするとき字がなくて困ることがある(田中貴子)
- 発想などに制約が加わっていると感じている(高辻知義)
- 誤字は減ったが、脱字は増えた(川村湊)
- しだいに漢字を忘れてしまうという驚くべき事態が起こって困った(柏木博)
- パソコンを使って初めて「書いた」本では、出てきたゲラを見て「、」がものすごく多くて驚いた(石原千秋)
- 劇的に漢字が書けなくなる。頭が聴覚型になる。画面に入る文章量をひとくぎりとして考えがちになる(井田真木子)
- 思った字が出ない時、文字の選択に時間をかけるときなど、ややイライラする(池内了)
- 手書きよりも早いので、文章がゆるんでだらけ、長くなる(安藤元雄)
- 変な字に変換して気づかぬことがある。出だしは手書きでないと書けない(吉田知子)
- 詩を書くときは無意識に、夾雑物なしに、文字が現われなければ詩想が止まってしまうので、私にはワープロは不向き(高橋順子)
- 不注意からたくさん書いていた文章(なんと90枚分)が消えてしまったときは打ちのめされた(高山文彦)
- 手紙などは、手書きの方がシンプルな文になるため、向いている気がする(高村薫)
- 若い世代には今後その流れはとめられないから、欠点をよく自覚して使うしかない(田久保英夫)
- 長い文章が書けなくなった。漢字がふえる傾向がある。体が不自由になってもパソコンは使えるだろう(なだいなだ)
- ワープロ原稿(手紙などをふくめて)には誤字が多いのには困る(近藤信行)
- 文章が冗舌になるのではないか、接続詞、形容詞が増えるのではないかとおそれる。利便性とひきかえに視力が落ちている(佐藤洋二郎)
- 同時に、くどく長ったらしくなったとも言える(岸田秀)
- 漢字や人名など、小生のフィールドには使いにくい(松本健一)
- ミスタイプが恐い。記憶媒体の様式の変化のスピードに不安(鈴木志郎康)
- 日常生活で漢字が思い出せなくなる(篠沢秀夫)
- 古典、漢文の引用はカナ使い、漢字数不足のため不便(三浦朱門)
- コンピュータが無いと書く気がおこらない(林望)
- 機械の気まぐれで書いたものが消えるのは困る。いつか眼が耐えられなくなるのではないかという不安。電気が不通になったら、機械が故障したら、という心配(三浦清宏)
- 原稿が長く冗長になったり、自分では書けない難字を用いたり、文体をなさない文が発生する危険性がある(樋口覚)
- ワープロに入力してから、組み立てて推敲することをあてにし過ぎ、最初打ち込むものが散漫過ぎる(片岡直子)
- 推敲、書き直しが容易な反面、決定稿を見定めるのが困難であり、推敲作業の後半からは紙の上で行うことが不可欠である(松本徹)
- 見えないところでエクリチュールがイデオロギー的に制御されているという事実をつねに自覚しておかないと、思考までが操作されてしまうことになるだろう(四方田犬彦)
- なぜプロの「もの書き専用機」を作らぬのか(安原顯)
- 頭にあることを純粋に表象することが書くことだと勘違いしやすいと思う(いとうせいこう)
- 注意すべきことは、漢字の使用が多くなること、うっかりの繰り返しがふえることだ(青山南)
- 見せ消ちができない。言葉が活字として立ち上がるときの躍動感が失われた。大きな息の流れが文章から失われる。無限の闇、無限の空白に、自分の欲望を書いていく作業に暴力性を感じることがある。中毒性がある(小池昌代)
- 手書きとは違った誤字が多くなったように思われる(勝又浩)
- 自分の癖のように(好きな仮名送りなど)ならないこと(椎名誠)
- 原稿用紙ほど持ち歩きが簡便でないこと(佐々木涼子)
- 目が疲れやすい。消したものが本当に消えてしまう(三木卓)
- アイディアにキーを打つ指が追いつけなくなることがある。目が疲れやすくなった(又吉栄喜)
- 使いはじめは思うように頭がはたらかず、長くぎこちない文章になった(佐伯順子)
- パソコンが壊れたら原稿も消失(若合春侑)
- ワープロで自分の「文体」を統御するためには、手書きのとき以上の集中が必要(井口時男)
- 手書きの場合は心にもないことは書けない。その程度がパソコンの場合は浅くなる。消したものが消えてしまうのはパソコンのよくない点(加藤典洋)
- へたな字がますますへたになった(池田香代子)
- あきらかに頭が悪くなる。集中力、記憶力の減退。目も疲れる。漢字にはまったく自信が持てなくなった。機械の都合で妙な略字を印字せざるを得ない。機器のない場所で作業することができない(松村栄子)
- 短所は、表記等に関して機器側(ソフトを含めて)の制約を受けること、データが瞬時に消失する危険性を常に抱えていること、紙よりディスプレイの方が目が疲れることくらい(川西蘭)
- ゲームなどへの切り替えが簡単 漢字が書けなくなる 修理・調整に膨大な時間を取られる 停電に弱い 外で書けない 寝転んで書けない(土屋賢二)
- 主要な短所は、推敲の跡がその都度消えてしまうことだろう(堀茂樹)
- 便利になった。ただ、便利さはもちろん頽廃を生む(松浦寿輝)
- 眼が疲れる(藤井省三)
- 欠点はなかなか字を憶えられないことと、字が上達しないことだろう(永江朗)
- 文を変形させ増殖させることが重要なプロセスとなった結果、文体は形容過多になりがちである。直された結果だけが反映されるため、客観的な推敲はむしろ困難になっている(清水良典)
- 指ではなく、頭で考えなくてはならず、スピードは鈍る(高橋三千綱)
- 違いはないという意見
- (手書きとの間に)本質的な違いはない(平野啓一郎)
- 手と指という肉体の一部ももとより機械の一つと思っているから、そこに本質的な違いなどあろうはずもない(蓮實重彦)
- 連載の途中で手書きからワープロに変わった単行本のどの章からワープロになったかを当てるクイズを、ネット上でしてみたが、正解者は一人もいなかった(俵万智)
- 書くプロセスは手書き時代とほとんど変らない(安藤元雄)
- 手書きとワード・プロセッサーとの間には、何らの差異もない(車谷長吉)
- ワープロ/パソコンはいくらでも直せるという長所があるが、これは短所にもなる(鈴村和成)
- キーボード操作と書字にあまり差はなく思考に変化が生じるという実感はない(高村薫)
- はじめは文体が変わるかと危惧、あるいは期待したが、自分ではあまり変わらなかったと思う(清水徹)
- ワープロ・パソコン使用による文体の退行、頽廃現象の意見は、つづまるところ、書き手の資質と文学に対する姿勢一つにかかっている。キーを打つとき、指先だけでなく全身全霊をかたむけるのは手書きの場合と、まったく変わらない(森内俊雄)
- 文章を書く物的プロセスはむろん変わったが、結果には変化はないと思う。パソコンの普及によって人間の意識に変化が起き、その結果として文学にも変化が起きることは、これまでのメディアの歴史が示す通りだろうが、パソコンが文学だけをとくに変えるとは思えない(木崎さと子)
- ワープロやパソコンで推敲・推敲するのとほとんど同じ作業をローテクでやっていたため、パソコン導入後も大して変化はない(石川忠司)
- 手書きとの変化は何も(微塵も)ない。機械で書いても、頭の動きが変わるわけじゃなし(清水哲男)
- 使わない人の意見・その他
- ワープロを練習したこともあったが、ずっと手書きの方が能率的(田辺聖子)
- ワープロを習つてみたい気もあるが、今まで通りにしてゐる(阿川弘之)
- Eメールなどはやっているが、小説やエッセイは、どうしてもダメ(高樹のぶ子)
- ワープロができりゃ、手が不自由になったケースで、ちょっと助かるような気もする(野坂昭如)
- 手書きは私の身体感覚に沿うもので変えるつもりはない(金石範)
- 自分が本格的に時代からとりのこされそうなのが、ちょっとしたたのしみでもある(井上章一)
- 手書きか、ワープロか、つまるところは好みの問題にすぎないと思っている(向井敏)
- 道具はできるだけ簡素な方がいい。旅先で書くことが多いので、ペン一本の機動力は捨てがたい魅力だ(立松和平)
- 道具は一番廉価な代物を使いたい。文房四宝などとほざいて玩物喪志になる事勿れと堅く肝に銘じている(大塚銀悦)
- もうあまり先がないので、次々と新発明に適応しなくてもよいのは助かる(山田太一)
- それほどの量は書かないので手書きで十分間に合う(森まゆみ)
- 本質的に通信機器であるパソコンという機械の性格を考えても、私が「手書き」を手放すことはないだろうと思う(城戸朱理)
- 誤記を“変換ミス”などといつて器械のせゐにするところから人間の退化が始まる(桶谷英昭)
- ワープロは目を痛めるというので、〈目が不自由〉な私は遠慮している(小林信彦)
- ワープロ使用の人の文体はどれも同じに見える。それは使用者の文体でなくワープロの文体と見える(高橋睦郎)
- 電子機器というのは事務用なので、文学が電子メディアに移行すると、事務的文学になっていく(尾辻克彦)
- 字を書くという行為はおっくうだけれども、けっして嫌いではなさそうだ(中野翠)
- 疲れたとき、氣がゆるんだときなどつい舊字舊かなが出てしまふ。そんなわけだからとてもとても機械を使ふ段ではなく、ひたすら原稿用紙に萬年筆で書いてゐる(武藤康史)
- 手書きで書き直すことによって多少とも心のこもった原稿が書けるのだと思っている(松本道介)
- ワープロで原稿を執筆したことがないので、その是非について意見はない(保坂正康)
- コンピュータによる印字は、言霊がデジタル解体された姿と言って良い(吉田司)
- パソコンの文章は、リズム感が乏しくなりがちである(なだいなだ)
- 人事はすべて行き着くところに行くまで止むことがないので、エレクトロニックなメディアの全盛・万能の時代が到来するだろう(鼓直)
- ワープロの方が能率的なのではとの焦りは感じるが、近眼、乱視のため、使用する気はない(山田智彦)
- ワープロ・パソコンが音声入力が主力となるだろう(栗田勇)
- 各々自分に適した表現方法をとればよいと思う(山本昌代)
- 手近な二百字詰原稿用紙、ボールペン。ヒョイヒョイと書くのがよいから、気にしない(森毅)
- ワープロやパソコンへの反感はないが、自分自身は将来とも手書きでいい(高田宏)
- ワープロ使用が広く普及しても、それ程の新機軸が生れると思われない(佐伯彰一)
- ものを書き始めたときすでにワープロがあったら、自然に使用していただろうと思う(小田島雄志)
- ワープロでの文章は、読んですぐわかる。改行が少なく、びっしりと弁当箱のように詰まっていて、余韻がない(出久根達郎)
- ワープロやパソコンでロクな文章が書けるはずはないということであろうし、私もそう思う(木田元)
- 便利とは思うが、文章をじっくり練ることが可能なのだろうかという気もする。味気ない(原卓也)
- 手書きで書かれた作家の原稿を見ると、その人の心がまえ、そのときの心理、かきこみ全てがその人を物語る。有用性とは別の問題だ(饗庭孝男)
- いくつかの文学賞選考に関係していて、ワープロ作品に軽いものが多いと感じるのは事実(光岡明)
- ワープロの騒音は好ましからず(飯島耕一)
- 特にこだわりがあって手書きを続けているわけではない。自分の執筆方法が変えられないだけ(三枝和子)
- ワープロは文体の固まっていない新人が使うべきではないと思う(浅田次郎)
- 手書きの原稿をワープロで清書している(山本道子)
- 基本的に手書きし、ワープロもしくはパソコンで浄書してもらったものに手を入れる(室井光広)
- 86歳すぎの今は文字を書くことすら困難。15年前、85歳をすぎた加藤唐九郎さんに「杉浦さんもワープロをやったら?」といわれた。唐九郎さんに従っておけばよかったと思う(杉浦明平)
このように、それぞれのメディアでいろんな意見が提示されている。
しかし、あまり個々の意見にこだわると、結局は個人的な好みの違いに行きついてしまうことになりかねないので、問題点を「技術以前」「技術」「技術以降」の三つに分けて考える。
技術以前の問題 bookmark
まず、以下のような技術以前の問題について切り離しておく。
筆蝕の問題 bookmark
手書きとは異なった方法で文字を記す道具に対して、筆蝕がないと論難しても始まらない。筆に快適なキー配列を求めたりはしないのと同じことだ。
以前は筆蝕のない筆記具などというものは存在しなかったから、「文字を記すこと」はそのまま「筆記」を意味し、その全過程を「筆蝕」と呼ぶことも可能だった。しかし、ワープロの出現によって、その前提は覆されたのだ。ワープロの存在を否定するのではなく、文字を記すときには必ず「筆蝕」があるはずだ(なければならない)という思い込みの方を修正すべきである。
「筆蝕のない文字は本当の文字ではない」という思想を持つのは自由だが、それならば、その思想は「本当の文字」で発表しなければ首尾一貫しないだろう。
文学の問題 bookmark
ワープロでは真の文学が書けないという意見もあるが、「活字」が「電子」化したぐらいで今さら騒ぐほどのことではない。それに、キーボードで執筆され、ネット上で流通している文学作品も既にある。自分にできないからといって他人にもできない筈だと推定する根拠はどこにもない。もちろん、逆もまた真なりで、誰でもワープロで文学的な作品が書けるとは限らない。
文字を記す方法が「書」であれ「打」であれ、あるいはまた「刻」であれ「印」であれ「噴」であれ、読んだ人の心を揺さぶることができれば、それは文学と呼べるのではないか。文字を記すための技術がどんなに変化しようとも、人間が遊び心を持ち、言葉を使っている限り、言葉の芸術はなくなりはしないと思うのは、楽観的すぎるだろうか。
「個」の問題 bookmark
電子メディアを日常的に使うようになってからのわずかな年月で、我々が急に「個」を失ったのだとは考えにくい。
もしもネットワーク上の表現が個性に乏しいのだとしたら、むしろネットワーク以前の環境の影響ではないかと疑ってみた方がいい。たとえば、マス・メディアを通して紋切り型の情報を与えられたり画一的な教育を受け続けたりした結果、個性的な発想や表現ができなくなったのだと考えた方が、まだしも筋が通るのではなかろうか(この考え方自体が個性に乏しいことを、私は否定しない)。
従来のメディアには乗りにくかった文章でも、電子メディアでなら公表することが可能だ。もちろん個性のない文章を垂れ流すことにも、それと同等の可能性が与えられている。
メディアや道具がどうであれ、「個」の確立を問われるべきは我々自身ではないか。
技術的な問題 bookmark
次は、純粋に技術的な問題について考える。
表現者と道具の関係 bookmark
ワープロはあくまでも文章表現のための道具にすぎない。どんな道具を使おうが、文章は書き手が書くものだ。筆や鉛筆やペンやワープロが書くのではない。
ワープロが表現内容に影響を与えるとすれば、それは、他の筆記具を使った場合と同じだろう。書き手が不慣れであったり道具の使い勝手が悪ければ、表現内容に悪い影響を及ぼすだろうことは誰にでも想像できる。
しかしワープロは執筆専用の道具というわけでもない。どのワープロにも編集支援機能や印字機能が入っているからだ。
原稿を紙にプリントした後で修正したい点があった場合、手書きで修正してもよいが、ワープロで修正して再度プリントすることも簡単にできる。プリントする前に修正するのはもっと簡単だ。
そのような修正を重ねていくと、ワープロで打ち出した原稿と、校正刷りとの間に表面上の違いがほとんどなくなってしまう。つまり、推敲と校正の区別がつきにくくなる。この点は特に、経験の豊富な文筆家ほど引っかかりを感じるのではないかと想像できる。
校正刷りができるまでの工程には生身の編集者が介在するが、ワープロの中にはもちろん編集者はいない。編集者がいるとすれば、ワープロの外でワープロを操作している人間だ。したがって、ワープロが打ち出した原稿を、校正刷りのような感覚でながめると、執筆者と編集者の一人二役を演じてしまうことになる。
ワープロに否定的な意見の中には、過剰な推敲の結果、文章が平板になってしまうという指摘が多い。しかしそれをワープロのせいにするのは筋違いだ。推敲するのは表現者自身なのだから。
また、ワープロのせいで漢字を忘れるという意見もあるが、ワープロに人間の記憶を消す力はない。手書きの際に漢字を忘れたような気がするのは、普段ワープロに頼って漢字を出しているせいだろう。
つまり「ワープロのせいで」は「ワープロのおかげで」の裏返し。これらは全て表現者自身の問題だ。このような錯覚を避けるには、機械に凭れかからず「ワープロなんて人間に指示されたことを実行するだけのものだ」と思っておいた方がよい。
キーボード bookmark
はっきり言って、キーボードの出来は悪い。これがワープロの使いにくさの一因となっている。キーボードは、身体的な運動に直接関わる部分なのだから、もっと注意が払われるべきだ。しかし残念なことに、使い心地はカタログに記載される数値には現われにくく部品数が多いという理由もあって、コストダウンの対象にされやすいのが実情だ。
現在普及しているキーボードは、機械式タイプライターの欠点をそのまま受け継いでしまっている。これには二つの問題点がある。
第一に、物理的なキーの並べ方に問題がある。機械式タイプライタは、その機械的な構造上、キーを縦方向に整列できない。そのため、キーは奥から手前にかけて、少しずつ右にずらされている。電子式キーボードでは、このような制限はなくなったにも関わらず、タイプライタと同じようにジグザグに配置されている。
物理的なキーの配置やキーボード全体を改善したキーボードはいくつも市販されているが、まだ一般にはあまり知られていない。
第二に、各キーに対する文字の割り当て方があまり合理的でない。これも機械的な制約があった当時の設計が今でも生き残っているのだが、今となっては根拠に乏しい。
英語用キーボードは英文タイプライタの欠点を引き継いだだけだったが、日本語用キーボードはもっとひどい。
現在最も普及しているJIS配列のキーボードは、山下芳太郎氏が生涯をかけて作り上げたカナタイプを改悪してしまったものだ。このいわゆる「JIS仮名配列」の使い勝手はよくない。しかし、一度普及してしまったものを改めるのは難しく、その後JISによって改良された新しい配列(いわゆる新JIS配列)は、今では市場から姿を消し、JIS規格としても廃止されている。
富士通が開発した親指シフトという仮名入力方式がある。これは文筆業者をはじめとする多くのユーザーに支持され、(サードパーティーを含めて)メーカーもサポートを続けている。また、NECのM式キーボードも現在も販売され続けている。他社が独自方式から早々と撤退していったことを思えば、この点だけでも評価に値する。
キーボードは、今後、もっと改良されなければならない。
入力方式 bookmark
英字配列や仮名配列のキーボードを使って、日本語の漢字仮名交じり文を入力するのは簡単なことではない。何といっても、漢字を打つにはキーの数が足りない。
和文タイプライタのような入力方法のワープロが作られるべきだったという意見もあるが、実はそのような方式(タブレット型)も開発された。しかしあまり実用的ではなかったため、今では姿を消している。その流れを汲んだ多段シフト方式は今でも印刷業界などで使われているかもしれないが、この巨大なキーボードは一般向きではない。
英字キーボードや仮名キーボードで仮名を入力してから漢字に変換する入力方式の方が実用的であり、一般のユーザーに支持されている。
現在、この仮名漢字変換方式が主流になっているが、言葉のプロたる文学者ともあろう人たちが、アマチュア向けの入力方式を試みただけで投げ出してしまったと聞くと残念でならない。筆ペンを使っただけで「毛筆はダメだ」なんてことを言っているのと同じように聞こえてしまうのだ。
日本語の入力方式は、仮名漢字変換だけではない。ローマ字や仮名を介さずに、意図した通りの漢字を直接打ち込む「漢字直接入力方式」というものがある。ワープロを全否定する前に、せめてこのことを知っておいてもらいたい。
漢字直接入力方式は、ある一定の順序でキーを打てば、必ず決まった漢字が入力できるというものだ。これを使いこなすには、数百から数千の漢字の打ち方を覚えなければならない。普通のユーザーは簡便な仮名漢字変換方式を選び、メーカーも多く売れる製品の開発に力を入れた。このことは当然の成り行きだろうと思う。
しかし、漢字の選択を機械任せにすることは我慢ならぬという人ならば、漢字の打ち方を身につける程度の練習は苦にならない筈だ。仮名漢字変換方式に不満があるのなら、一度は漢字直接入力方式を試してみてもいいだろう。
漢字直接入力には、いろいろな方式がある。キーボードフォーラムの「漢字直接入力」のページ(http://www.nifty.ne.jp/forum/fkboard/kanchoku.htm)に簡単にまとめてあるので参照してほしい。
〔註:キーボードフォーラムは2007/03/31に終了しましたので、その代りに「漢字直接入力」を御覧ください〕
技術以降の問題 bookmark
技術以降の問題として、以下のような問題点も考えられるだろう。
ユーザーの智恵 bookmark
ワープロのように未完成で融通の利かない道具は、使う側の工夫次第で便利にも不便にもなる。
たとえば、執筆が一区切りするごとに別のファイルに保存しておけば、事故でデータが消えてしまったときや推敲をしすぎたときに復旧することができる。
また、同音語選択で思考が中断するのが嫌なら学習機能を切って変換キーを打つ回数を身体に叩き込めばよいのだし、文章全体を一覧したければ紙にプリントして眺めればよい。
ワープロの主な用途(文書の作成や編集)を考えたとき、CPU、メモリ、ハードディスク等の高速化や大容量化はそれほど必要なことではない。それらの部品が安価になった分、キーボードの使い勝手やディスプレイの見やすさ等に開発費を注ぎ込んで欲しいと思う人は多いだろう。
自分にとって何が重要であり何が不足しているのかをきちんと把握しておけば、新しい機種やソフトが出ても冷静に判断できる。また、店頭で触って良し悪しが判断できる程度に使いこなしていなければ、まともな製品を選ぶことはできない。つまり、最初から最新の最高機種を買い整えるようなことは避けた方がよい。
さらに、我々ユーザーの声を直接メーカーに伝えることができればよいのだが、それ以前に、使いもしない機能やおまけにつられて不必要な買い物をしていないか、冷静に考えてみるべきだろう。一人のユーザーの声が「売上」という名の大きな声にかき消されるだろうことくらいは容易に想像がつくからだ。
教育の問題 bookmark
ワープロを学校で教えるべきかどうかという議論について。
「ワープロぐらい打てなくては将来困るだろう」という肯定的意見と、「子供のうちからワープロを使わせると漢字が書けなくなるのではないか」という否定的意見はよく見るが、ワープロを教えるかどうかではなく、もしもワープロを使うとしたらそれによって何を学ばせるかを問題にすべきではないか。ワープロを使うこと自体が目的化してはいないだろうか。
このことは、我々大人がワープロを使って何を成しているのか(あるいは成そうとしているのか)を抜きにしては考えられない。ワープロを単なる清書機械、高級な筆記用具として使っているだけならば、わざわざ学校で使い方を教えるまでもない。
そうではないような何らかの目標があってワープロやコンピュータを教育の場に導入するのならば、それはそれで構わない。ただし、少なくとも子供たちの健康に与える影響を充分に考慮しなくてはならない。特に、大人用の打ちにくいキーボードを使わせることや、狭い机にCRTを置くような学習環境には、大いに疑問を感じる。
メディアの活かし方 bookmark
活字メディアではワープロ批判の輪が拡がりつつあるのかもしれない。しかし、活字メディアに掲載された文章を網羅的に検索するのはほとんど不可能であり、また、読み捨てられるメディアでは後から議論に加わる人が原文を参照するのが難しい。有意義な問題提起がなされても、一部の読者の間でしか共有できないのは残念なことだ。
電子メディア、特にネットワークには、そのような制約は少ない。ワープロのように多くの人が日常使う道具について多面的に議論するには、誰にでも対等に発言する機会のあるネットワークの方が適しているのではなかろうか。
活字にもネットにもそれぞれの良さがある。手書きとキーボード入力についても、二者択一でなく、場合に応じて使い分ければいいではないか。
これを読んでいる人の大半は、現にワープロやパソコンを使っている人たちだろう。ワープロやパソコンを敬遠している人たちに紹介していただければ有り難い。
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